仏リーグ連覇目前。世界一のクラブを目指すPSGの野望 (2ページ目)
「将来のビジョンはしっかり持っていた」と、PSGの40歳の会長ナセル・アル・ケライフィは僕に言った。「5年のうちにヨーロッパで最高のクラブの仲間入りをして、チャンピオンズリーグでも優勝したい。われわれのブランドは10億ユーロ(約140億円)の価値がある。そこを目指したい」。この言葉を聞いたら、パリの街は驚きのあまりふらついてしまうだろう。
いまPSGのチケットを買ったら、パルク・デ・プランスの外ではスキンヘッドの右派の若者ではなく、ジャズオーケストラに迎えてもらえる。このクラブのVIPサロンは、1平方メートル当たりの「セレブ率」がパリのどの高級レストランよりも高いかもしれない。ピッチではスウェーデン人FWのズラタン・イブラヒモビッチがゴールを決め、対戦相手をくそみそに言う。大事な試合があると、パリっ子はテレビ観戦のためにカフェを埋めつくすようになった。時代は変わった。
1970年に創設されたPSGは、ヨーロッパでも最近生まれたクラブのひとつだ。生まれてすぐに、PSGはフーリガンの根城になった。「青・白・赤、フランスは白だ」というチャントを、パルク・デ・プランスの「ブローニュ」スタンドに陣取る白人のスキンヘッドたちは叫んでいたし、極右の政治家ジャンマリ・ルペンをたたえて「ジャンマリを大統領に!」とも叫んでいた。ブローニュ・スタンドのファンは、PSGの黒人選手をよくからかってもいた。
のちにブローニュの反対側にある「オートイユ」スタンドが、黒も茶色も白も混じり合った人種混合的な場所になる。ブローニュとオートイユは「内戦」を始めた。クラブはどちらのサポーターにも助成金を出していた。「PSGよ、ありがとな。おかげで俺たちはフランスの恥でいられるぜ」と、ファンは歌った。クラブの理事たちは暴力的なファンを処罰しようとはしなかった。ファンは理事がどこに住んでいるかを知っていたからだ。この恐怖心は理解できた。2002年の革命記念日には、マキシム・ブルネリというブローニュ・スタンドの常連でネオナチの男が、ジャック・シラク大統領を22ミリ口径のライフルで暗殺しようとした。
かつてのPSGは長期的な計画など立てなかった。「私はスペクタクルをつくり出すという需要に沿って、PSGを運営している」と、元会長のひとりは僕に語った。「むこう20年間は計画など立てない」
選手たちはホームゲームのプレッシャーにのまれていた。いわゆる「パルク・デ・プランス症候群」だ。PSGは1986年と1994年にフランスリーグを制し、1996年にはヨーロッパ・カップウィナーズカップに優勝したが、そんなシーズンは例外だった。今、PSGのディレクタージェネラルを務めるジャンクロード・ブランは、昔のPSGは「パリという街のパワーに負けていた」と語る。「ここではすぐに結果を出さなくてはならないから
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