【Jリーグ連載】読売クラブのアカデミーにおけるシビアな競争社会 「練習に行くのがすごく嫌だった」"劣等生"の回想 (2ページ目)
うちの母が練習を見にきた時も、グラウンドが殺気立っている空気だったみたいで、『うちの子じゃあ、ダメだろうな』って思ったらしくて......、それくらい、とにかく怖かったです」
だが、冨樫の言葉を借りれば、「僕みたいにあきらめが悪い人間は、何かを残して認められていく」のも、このクラブのよさであり、面白さである。
「怖かった」という思い出にしても、それはあくまでもピッチ内での厳しさを表現したものである。だからこそ、冨樫の足がよみうりランドから遠のくことはなかった。
「ひとつ上が藤吉信次たちの代で、僕は下手だったのでピッチのなかでは、もう罵声を浴びせられながらでしたけど(苦笑)、練習の行き帰りは先輩たちにすごくよくしてもらっていたので、そういう(やめたいという)気はまったくなく、とにかくサッカーがうまくなりたい、こういう先輩たちみたいになりたいっていう思いで日々過ごしていました」
すると、次第に変化が表われる。
前述同様のゲーム形式の練習になると、いつものように先輩の指名によるチーム分けが行なわれていたのだが、だんだんと冨樫の名前が早く呼ばれるようになっていくのである。
「『あれっ、先週はいらないって言われたのに、ひとつ前(の順番)で呼ばれた!』みたいな感じでしたね(笑)」
また、同じ読売の選手同士が、カテゴリーの垣根を越えて一緒にプレーできるのも、冨樫にとってはたまらない魅力だった。
「たまにトップチームの選手たちが、練習にまじってくれるのはうれしかったですね。僕は小学生の時、等々力競技場で(読売を応援する)サンバ隊と一緒に笛を吹きながら踊っていたんですけど、都並(敏史)さんがそのことに気づいてくれたり(笑)。僕は戸塚(哲也)さんに憧れていたので、戸塚さんがボール回しに入ってきてくれるのは、とにかくうれしかったです」
憧憬の対象は、トップチームの選手たちばかりではない。「(ジュニアユースの)身近な先輩たちがあまりにもうまくて、それに憧れる。『1年後、こうなれるのかな』って思いながら、日々過ごしていく。だから、やめたいというより、早く憧れの選手たちに追いつきたい。早く一緒にやりたい。そんな気持ちのほうが大きかったです」
なかでも、年が近いにもかかわらず、別格の存在が同じクラブにいた。
「僕のふたつ上に菊原志郎がいたんですけど、そもそも志郎なんて、まったく(ジュニアユースの練習に)いないんです。トップチームの練習に行っているから。だから僕、1年で2回くらいしか会ったことがありませんでした」
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