検索

釜本邦茂を想起させたストライカー田原豊が振り返る 豪快弾の数々とパサーとしての中村俊輔、遠藤航... (2ページ目)

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

【もっと活躍できる可能性があった】

「当時、鹿実には松井大輔がいて、松井を見に行ったら1学年下の豊に目が行ったんです。プレーは粗削りでしたが、サイズがあって体もガッチリしていた。ジャンプしてもゴムマリのようにポンっと飛び上がる。お父さんが元相撲取りだと聞いて、『これは面白い選手になるかもしれない』と思いました」

 現役時代に日本サッカーリーグのヤンマーで「日本サッカー史上最高のストライカー」と名高い釜本邦茂とともにプレーしていた西村は、Jリーグ開幕後、ガンバ大阪の監督を務めた釜本をコーチとして支えた。田原を初めて見た時、頭に浮かんだのはその"原点"だったのかもしれない。

「私にとってのCFはイコール釜本邦茂でしたし、無意識のうちに豊を見て、『ガマさん(釜本)の高校時代はこんなんだったんちゃうかな』との思いはありました」

 それだけに、その後の田原のキャリアを思うと、西村の胸に指導者としての悔いも残っているようだ。

「たとえばワールドユースの予選を兼ねたアジアユース決勝のイラク戦でのヘディング弾も(試合は延長の末2-1でイラクが勝利)、世界基準のゴールだったと思います。ただ、豊は性格が優しすぎたというか。どこかで妥協してしまったのかな。もっと彼にサッカーの楽しさ、奥深さを伝えることができていたら......。彼の指導に関わったひとりとして、申し訳なさと自分の力不足を痛感しています。もっと活躍できる可能性があったのは間違いないと思います」

 スケールの大きな選手だっただけに、田原がどんな選手に憧れていたのかも気になるが、特定の選手に憧れるようなことはなかったという。高卒で横浜F・マリノスに入団したものの、当時はJリーグの知識はほとんどなく、初ゴールをアシストしてくれた中村俊輔の存在すらよくわかっていなかったと振り返る。

「高校の進路相談の時、鹿実の松澤隆司先生(監督)からは『オマエが行きたいなら、どのチームにでも行けるぞ』と言われました。ただ、Jリーグについてはほとんど知らなかったし、僕はひとりでドリブルでゴリゴリいけるタイプではないので、誰かいいアシストをしてくれる選手がいるチームに行きたいと思ったんです。それでマリノスには中村俊輔というパサーがいると聞いたので、マリノスに行くことを決めました。実際チームに合流した時は、俊さんの顔と名前はまだ一致してなかったですけどね(笑)」

2 / 4

キーワード

このページのトップに戻る