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【Jリーグ】ジュビロ磐田・福西崇史が2002年の史上最強チームを語る「鹿島に負けた屈辱が原動力になった」 (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【「中山雅史vs秋田豊」の構図】

 磐田の歴史を振り返ると、1994年にJリーグに参入して以降、右肩上がりに成長を遂げていきました。中山(雅史)さんという象徴がいて、俊哉さんがいて、ハットがいて、僕は名波さんと一緒に1995年に加入して、その頃からほとんど同じメンバーで戦うなかで、毎年、毎年、積み上げというものができていったと思います。

 監督もハンス・オフトから始まり、戦術的なことを学びながら、ルイス・フェリペ・スコラーリやほかのブラジル人監督からは勝負へのこだわりを教えてもらいました。そういう流れで迎えた2001年は、まさに集大成の年だったと思います。でも、結果的に鹿島には勝てなかった。その現実は重かったですね。

 当時の磐田にとって、鹿島は絶対的なライバルでした。とにかく勝利へのこだわりというものを一番感じるチームでしたね。

 そのチームに屈しないためには、どうすればいいのか──。常にそのことばかりを考えていたので、鹿島戦の前はミーティングなんかしなかったですよ。彼らがどういうチームかわかっているから、言うまでもないと。それくらい意識していた相手です。

 ボランチの僕は、小笠原満男や本山雅志を抑えるために激しくいきましたし、本田(泰人)さんは怖かったけど、負けるわけにはいかないので、バチバチとやり合いました。

 磐田と鹿島と言えば、「中山雅史さん対秋田豊さん」という構図もありました。あのふたりのやり合いはチームの士気にも関わってくるので、どうにか勝ってほしかったですし、勝負どころではあえて、そこを使いましたね。もう気持ちと気持ちのぶつかり合いで、一番象徴的な戦いだったと思います。

 ああいった個人と個人の熱いバトルは、今ではほとんど見られなくなりました。戦術同士の争いになっているので、そこの部分の面白みを感じられなくなったのは、個人的には残念なこと。ベテランの人たちがバチバチとやり合っている姿は僕も好きだったし、やっているほうも楽しかったですから。

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