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米倉恒貴が古巣・ジェフでの戦いにかける熱き想い――「あのとき」のことが色濃く残っている

  • 高村美砂●取材・文 text by Takamura Misa

ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ
第8回:米倉恒貴(ジェフユナイテッド千葉)/後編

photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Imagesphoto by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る

◆前編:ジェフ千葉のJ1昇格に全力を注ぐ米倉恒貴のサッカー魂>>

 ジェフユナイテッド千葉でのプロキャリアをスタートした米倉恒貴がレギュラーの座をつかみ取ったのは、プロ5年目の2011年だ。2009年にクラブ史上初のJ2降格が決まり、カテゴリーをひとつ落とした戦いも2年目に突入したなかで、米倉は自身初の開幕スタメンの座をものに。そのギラヴァンツ北九州戦でゴールを決めたのを皮切りに、サイドハーフやトップ下などで35試合に出場し7得点と存在感を示す。

 さらに、大きな転機になったのは、2012年の左足腓骨骨折を乗り越えて迎えた2013年だ。この年、再び開幕スタメンに返り咲いた米倉に、サイドバック転向の話が持ち上がる。そのチャレンジは新たな活路を見出すことにつながった。

「正直、プロ5年目をすぎた頃から、トップ下やサイドハーフでのプレーに難しさを感じ始めていたというか。同じポジションの他の選手に比べて、将来的に継続して活躍するにはもうひと伸びしないと生き残れないということは、自覚していました。ただ、それを認めたくなくて、とにかく結果だ、もっと活躍しないと上にはいけないという一心で頑張っていた自分もいたんですけど。

 そんな時にサイドバックにケガ人が相次いだことを受けて、鈴木淳監督がやってみろ、と。正直、当時は今の時代と違って前の選手が後ろをやるのも流行っていなかったし、11番を背負っていたので嫌だったんですけど(笑)。

 でも結果的に、自分の持ち味である走力やクロスボールといった得意な部分が引き出されたというか。当時のジェフにはパサーがたくさんいて、僕が走ればボールが出てくるという状況だったことにも助けられて、ひたすらそのボールを追いかけていたら最初の試合で2アシストでき、以降もアシストのところで数字がめちゃ出せた」

 その活躍が目に留まり、シーズン終了後には多数のJ1クラブからオファーが届く。「生涯・千葉」を目標にしていた彼にとっては難しい決断になったが、自身の年齢を考えて、新たなチャレンジに踏みきった。

「ずっとジェフをJ1に昇格させたいと思ってやってきたけど、毎年のようにプレーオフには進めても、最後のところでなかなか結果が出せなくて。その頃には個人的な目標も、目線が上がって日本代表になることを描き始めていたなかで、25歳という年齢を考えてもそろそろ何かを決断しなくちゃいけないなと思ったのが一番の理由です。

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