「日本のシャビ」田口泰士(名古屋)の可能性 (3ページ目)
同年代はクラブユース出身者が多いが、高校の部活を選び、比嘉祐介(横浜F・マリノス)など先輩選手が在学していた流通経済大柏へ進んだ。
時間がゆっくりと流れる沖縄から都会に出てきて、精神的にきつかったという。人の流れの多さに酔いそうになり、空気の違いに調子が出ず、島の友人に会えない寂しさを感じた。もっと端的に言えば、日常的に食べていたそばがたまらなく恋しくなった。それでも彼は「帰るわけにはいかないから、やらなきゃ」と気持ちを奮い立たせたという。その心境は、海外サッカー修行に出ている状態に近かったかもしれない。
そこで彼は高円宮杯、高校選手権、高校総体などタイトルを取り尽くしている。
そして2009年1月、名古屋グランパスへの入団が決まった。
経歴だけを綴ると、プロ選手になるべくしてなったエリートのような印象もある。しかし本人は、「プロは意識していなかった」と苦笑する。高2のとき、スカウトが来ていることを知らされ、ぼんやりとは想像を巡らせたが、高3になって実際にオファーを受けるまでは本気で考えていなかったという。
このあたりの鷹揚(おうよう)さが、なんくるないさ、の真骨頂なのかもしれない。
しかしプロ入団後、3シーズンでリーグ戦出場4試合と苦しんだ。戦力外通告を受けてもおかしくない危機的状態を脱することができたのは、ボランチへのコンバートが大きかった。
「去年(2012年)の夏になる前ですかね。コーチのボスコ(・ジュロヴスキ)に、『タイシは絶対にボランチがいいぞ』って言われて。そのときは、そうかな、くらいに思っていたんですけど。中盤でケガ人が出て、出場機会が巡ってきて、たまたま使ってもらった試合で良かったんです。それからもボランチを任されるようになりました。ボスコは、『ほら、言っただろ?』と得意げでしたけど(笑)」
年代代表ではボランチをすることもあったが、所属チームではFWや攻撃的MFが多かった。名古屋でも、4年目途中まではサイドMFのような位置でポジションを争っていた。当然ながらボランチとしてのキャリアは浅いが、特筆すべきは守備センスにある。攻撃的な選手がボランチをする場合、どうしても攻撃に色気を見せてポジションを留守にし、失点の契機を作ってしまうのだが、田口はリスクマネジメント能力が高く、インターセプトの回数も多い。
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