サッカー日本代表の優勝はたった1度 今年で42回目のU-20アジアカップの歴史 (3ページ目)
【サッカー人気のなか行なわれた54年前の日本大会】
6年後の1971年にも、再び日本でアジアユース選手権が開催された。
メキシコ五輪で銅メダルを取ったことでサッカー人気はさらに上昇しており、メイン会場の国立競技場には多くの観客が集まった。6年前の大会の参加国は10カ国だけだったが、この時は16カ国参加の本格的な大会となった。
日本代表には漫画『赤き血のイレブン』で有名な浦和南高のエースだった永井良和や後に日本人として初めて西ドイツのブンデスリーガで活躍する奥寺康彦などがいた(ともに古河電工)。僕にとってはほぼ同世代の選手たちなので、いっそう親近感も沸いた。
前年の大会はいつものように高校選抜で参加したのだが、それでも永井や奥寺の活躍で日本はベスト4入りしていた。当然、20歳以下の選手で固めた地元開催の大会では優勝が期待された。
実際、日本代表は3戦全勝でグループリーグを突破すると、準々決勝でもインドを3対0で一蹴し、準決勝に進出した。
準決勝の対戦相手は韓国。日本にとっては宿敵だ。
国立競技場には約3万人の観衆が集まり、その声援を受けて日本はゲームを支配。延長までの120分間、何度も決定機を作ったのだが、どうしてもゴールを決めきれず、勝負はPK戦に持ち込まれた。
今では、当たり前のようになっているPK戦だが、日本国内の大会でPK戦が採用されたのはこの大会が初めてだった(それまでは、ノックアウト方式で引き分けに終わった場合は抽選で勝者を決めていた)。
日本ゴールを守るのは、後に日本代表として活躍する瀬田龍彦だったが、PK戦で「スター」になったのは韓国の金鎮国(キム・ジングク)だった。いや、「スター」ではなく、「ヒール」と言うべきか......。僕と同世代の方なら、きっと今でもその名を覚えていることだろう。
助走やキックモーションを途中でストップさせるような駆け引きを再三使って顰蹙を買ったのだ。その後数年間、選手がずる賢いプレーをすると、すぐに「キム・ジングク!」と揶揄されたものだ。
ちなみに、金鎮国氏は、その後、韓国サッカー協会の役員として長く活躍した。
日本は初めて経験するPK戦に敗れ、さらに3位決定戦でもビルマに敗れて前回と同じ4位に終わり、決勝ではイスラエルが韓国に1対0で勝利して優勝した。
なお、日本開催の2度のアジアユース選手権でともに優勝するなどアジアの強豪として君臨していたイスラエルは、アラブ諸国との対立によって1974年にはAFCを除名され、1992年に欧州連盟(UEFA)に加盟することになる。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
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