サッカー日本代表の優勝はたった1度 今年で42回目のU-20アジアカップの歴史 (2ページ目)
【日本の優勝は1度しかない】
さて、そのアジアユース選手権(現U-20アジアカップ)。日本は全42大会中38大会に参加していながら、なんと優勝はたった1度(2016年大会)しかない。
フル代表によるアジアカップでは日本は最多の4回優勝を飾っているし、U-23アジアカップでも日本は全6大会のうち2度優勝している(この大会で複数回優勝したのは日本だけ)。さらに、U-17アジアカップでも日本は最多の4度優勝を記録している。
女子の大会を含めて、日本は他のあらゆるカテゴリーのアジアカップで何度も優勝しているのに、U-20アジアカップではたった1回しか優勝したことがないのだ(ちなみに、最多優勝は韓国で、なんと12回!)。
初期の頃は、日本が優勝できなくても仕方がなかった。
大会が始まった1950年代には第2次世界大戦による育成の中断によって日本サッカーは弱体化しており、1958年に東京で開かれたアジア大会では、ホーム開催だというのにフィリピンにまで敗れてグループリーグで敗退した。
そして、1960年代に東京、メキシコの両五輪で活躍したが、その後は再び低迷する。
だから、当時の日本にはアジアの大会で優勝する実力はなかった。
また、当時の日本蹴球協会は継続的にU-20代表を結成することができず、アジアユース選手権の年齢制限は20歳以下だったのに、日本はほとんどの大会に高校選抜を派遣していた。つまり、他国とは2歳ほど年齢差があったのだ。
そんな時代だったが、日本は1965年と1971年にアジアユース選手権を開催した。そして、さすがに地元開催の大会では日本も年齢制限いっぱいの20歳以下の代表を結成して臨んだ。
1965年の第7回大会は東京の駒沢陸上競技場をメイン会場として開かれた。1964年の東京五輪で日本はアルゼンチンを破って準々決勝に進出。1965年には日本サッカーリーグ(JSL)も始まってメディアで大きく取り上げられ、「サッカーブーム」と言われ、JSLには多くの観客が集まっていた。
1965年アジアユース選手権のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る さて、1965年の日本ユース代表には後に三菱重工で活躍し、日本代表にもなった落合弘(旧姓・山田)や古河電工のMFとして活躍した吉水法生などがおり、優勝も期待されていたが、香港とイスラエルに敗れてグループリーグ敗退に終わってしまった。
イスラエルは当時AFCに所属しており、この大会でも決勝でビルマ(ミャンマー)に5対0と圧勝して連覇を飾った。
前年の東京五輪で初めてサッカーの試合を生観戦した僕は、1965年に中学に進学するとすぐにサッカー部に入部した。そして、アジアユースももちろん観戦に行った。学校から連れて行かれた東京五輪は別として、僕にとって初めて自分で入場料を払って見に行った国際大会だったのだが、どんな試合だったかはまったく記憶にない。
ただ、インドの選手たちの脚があまりに細かったので、ビックリしたことだけをなぜか鮮明に覚えている。
僕が観戦に行ったのは日本対イスラエルの試合だったが、日本は優勝したイスラエルに対して1対2の惜敗だったから、今から思えば"善戦"だったのだろう。
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