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サッカー日本代表の優勝はたった1度 今年で42回目のU-20アジアカップの歴史

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

連載第38回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は、現在中国の深圳で行なわれているU-20アジアカップについて。スタートは1959年で今年42回目の開催となる。日本の若手選手を鍛えてきた、その長い歴史を綴ります。

【1959年スタート。今回が第42回大会】

 現在、中国の深圳でU-20アジアカップが開催されているが、アジアサッカー連盟(AFC)主催のこの大会は今年でなんと第42回を迎えるという非常に伝統ある大会だ。

中国でU-20アジアカップを戦っているサッカーU-20日本代表 photo by Getty Images中国でU-20アジアカップを戦っているサッカーU-20日本代表 photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る たとえば、同じAFC主催のU-17アジアカップは4月にサウジアラビアで開かれる大会が、まだ20回目。

 U-20アジアカップの第1回大会(当時は「アジアユース選手権」)が開かれたのは1959年というからもう66年も前のこと(現在は2年に一度だが、かつては毎年開かれていた)。FIFA主催のU-20ワールドカップ(ワールドユース選手権)が始まったのが1977年だから、アジアの大会はそれよりずっと前から開かれていたのだ。

 大会が始まったのはトゥンク・アブドゥル・ラーマン氏の提言によるものだった。1957年に英国から独立したマラヤ連邦(現マレーシア)の初代首相だったが、大のサッカー好きとして知られ、1958年にAFCの第5代会長に就任すると1976年までその職にあり続けた。

 AFCは1954年に創設され、当時は英国植民地ですでにプロサッカーも存在していた香港に本部が置かれていたが、ラーマン氏が会長になってからマラヤの首都クアラルンプールに移転し、現在もAFC本部は同市近郊にある。

 マラヤ独立を記念して、かつて毎年ムルデカ大会という大会も開催されていた(「ムルデカ」はマレー語で「独立」)。アジアの強豪国の代表による大規模な招待大会で、日本も毎年のように参加し、代表強化につながった。この大会もラーマン氏の提唱によるものだ。

 ラーマン氏は、若手育成を目的に20歳以下の選手によるアジアユース選手権の開催を実現し、その第1回大会が1959年4月にクアラルンプールで開催されて韓国が優勝。杉山隆一などがいた日本は第1回大会では3位に入っている。

 第2次世界大戦直後、アジアで孤立していた日本にとっては、ムルデカ大会も、アジアユース選手権も各国と交流できる貴重な場だった。当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は財政が苦しかったから、もしこの大会がなかったらユース代表を結成することもなかったかもしれない。

 ラーマン首相は親日的な政治家だったが、日本のサッカー界にとっても恩人のひとりと言える。

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著者プロフィール

  • 後藤健生

    後藤健生 (ごとう・たけお)

    1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。

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