サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで (5ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

 バルサからレアル・マドリードに禁断の移籍をしたルイス・フィーゴが、白のユニフォームを着て古巣のカンプノウで初めて戦う試合である。レアル・マドリードのビセンテ・デル・ボスケは、そのしばらく前、こちらのインタビューにフィーゴを獲得した理由をこう語っていた。

「我々のチームにはこれまで攻撃のルートが2つしかなかった。フィーゴを右ウイングに据えることで、それを左、真ん中、右という3つに増やそうとしたのだ」

 トルシエのサッカーを含めて、当時の日本サッカーはウインガー不在だった。現在の日本とは全く異なる姿で、2002年日韓共催W杯に臨んだ。当時のメンバーを現在のスタイルで戦わせてみたかった......というのが率直な思いだ。結果はベスト16だったが、攻撃のルートが3本存在した共催国・韓国のほうが、サッカーの内容は明らかに面白かった。
(つづく)

著者プロフィール

  • 杉山茂樹

    杉山茂樹 (すぎやましげき)

    スポーツライター。静岡県出身。得意分野はサッカーでW杯取材は2022年カタール大会で11回連続。五輪も夏冬併せ9度取材。著書に『ドーハ以後』(文藝春秋)、『4-2-3-1』『バルサ対マンU』(光文社)、『3-4-3』(集英社)、『日本サッカー偏差値52』(じっぴコンパクト新書)、『「負け」に向き合う勇気』(星海社新書)、『監督図鑑』(廣済堂出版)、『36.4%のゴールはサイドから生まれる』(実業之日本社)など多数。

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