トルシエがA代表の活動に本腰を入れた2000年――絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは?

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

フィリップ・トルシエの哲学
連載 第4回
2000年アジアカップ優勝の舞台裏(1)

 フィリップ・トルシエにとって2000年は、2002年ワールドカップに向けての折り返しの年だった。

 1998年秋に日本代表監督に就任して以降、コパ・アメリカ(1999年)には参戦したものの、A代表の活動にはそこまで重きを置いてこなかったトルシエ。その間、1999年ワールドユース(現在のU-20W杯)準優勝を経て、2000年シドニー五輪に向けてU-20代表と五輪代表の世代統合を遂げた。

 本格的なA代表の活動を再開するにあたり、まず着手したのが世代統合した五輪代表のA代表への統合だった。2000年最初の活動となるカールスバーグ杯(香港)と、続くマカオでのアジアカップ予選からそれは始まった。

 代表復帰を果たした三浦知良(カズ)や中山雅史ら"ドーハ(1993年のW杯アジア最終予選)組"から、小野伸二、稲本潤一、中田浩二ら"1999年ワールドユース組"まで。世代を超えたグループは、2002年日韓W杯に向けての第一歩を踏み出した。

2000年に入って本格的にA代表の活動に力を入れ始めたトルシエ。右は三浦知良。photo by Kyodo News2000年に入って本格的にA代表の活動に力を入れ始めたトルシエ。右は三浦知良。photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る 途中"トルシエ解任騒動"というアクシデントに見舞われながらも、6月のハッサン2世杯(モロッコ)での好パフォーマンス――世界チャンピオンのフランスと2-2の引き分け(PK戦の末に敗退)、1998年フランスW杯で苦杯を舐めたジャマイカには、城彰二やカズのゴールなどで4-0と快勝――により、世論の信頼を回復したトルシエジャパンは、この年の最大のターゲットであるふたつの大会、シドニー五輪とアジアカップ(レバノン)に臨んだのだった。

 このふたつの大会は、ほぼ同時期に行なわれる(シドニー五輪のサッカー競技は9月13日~30日、アジアカップは10月12日~29日)。トルシエはふたつのチームを同時に準備する必要に迫られた。

「それは、私のやり方でもあった」と、当時を振り返ってトルシエは言う。

「というのも、正確にはふたつのチームではなく、ラボラトリーのポリティックスのなかで形成されたグループだったからだ」

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