トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか「私は名前で選手を選ばない」

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

フィリップ・トルシエの哲学
連載 第4回
2000年アジアカップ優勝の舞台裏(2)

◆(1)トルシエジャパンが絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは?>>

 ベトナム代表監督として、まもなく開幕するアジアカップ(カタール)に臨むフィリップ・トルシエは、2023年12月28日に45人の選手を国内合宿に招集した。半分が23歳以上の選手たち、残る半分が23歳以下の選手たちである。

 この45人が同じ戦術プロセスを踏襲し、同じ動き、同じ戦い方を身につけるまで反復練習を繰り返す。いわゆるラボラトリー(実験室または研究室)である。1週間ほどの合宿期間であっても、できる限り多くの選手たちと実践的な戦略を維持していくには、「最も効果的な方法である」とトルシエは言う。

 その後、選手を26人に絞り込み、1月5日にトルシエとベトナム代表はカタールに向けて旅立ったのだった。

「40人~50人の大きなグループを作るのは、日本で実践した方法でもある。(2000年には)そこからふたつのグループ(シドニー五輪代表とアジアカップ代表)を構築したが、ふたつはまったく異なるグループではなく、ラボラトリーのなかで同じプロセスを踏襲したグループだ。そのベースがあれば、それぞれの大会への対応もずっと容易になる」

 現にふたつのグループは難なく融合し、2000年のアジアカップ(レバノン)で好結果を残した。

 当初、トルシエはシドニー五輪で日本が準決勝に進んだ場合、つまり決勝または3位決定戦を含めて全6試合を戦うことになった時は、シドニー五輪のメンバーからアジアカップに連れていくのは、2、3人にとどめるつもりだった。しかし日本は準々決勝で敗退し、期待された1968年メキシコ五輪以来、32年ぶりのメダル獲得はならなかった。

 ただ、前倒しで五輪を終えたおかげで、シドニー五輪組から森岡隆三、松田直樹、中澤佑二、三浦淳宏、明神智和、中村俊輔、稲本潤一、柳沢敦、高原直泰の9人をアジアカップに連れていくことができた。中田英寿の辞退はあったものの、日本はほぼベストメンバーでアジアカップに臨めることとなった。

「もしシドニーでメダルを獲っていたら――もちろん、それは十分に可能だったが――アジアカップの優勝は難しかっただろう」(トルシエ)

 アジアカップのもうひとつのポイント、それは名波浩の代表再招集だった。

2000年のアジアカップ優勝に大きく貢献した名波浩。photo by Kyodo News2000年のアジアカップ優勝に大きく貢献した名波浩。photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る

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