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トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか「私は名前で選手を選ばない」 (2ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

 日本が南米サッカー連盟(CONMEBOL)に招待されて参加した1999年のコパ・アメリカは、トルシエが「フランスW杯組を主力にした日本代表の最後の大会」と位置づけた大会だった。その時から彼の頭のなかには、1999年ワールドユース後にU-20代表の五輪代表への統合、さらにその後の、五輪代表のA代表への統合というプロセスが描かれていた。

 技術的に優れた若い世代を主軸にして2002年W杯に臨む――若い彼らにこそ、日本サッカーの未来がある――というのが、トルシエの信念でもあった。

 はるばるパラグアイまで出向いたコパ・アメリカの結果は惨憺たるものだった。直前のキリンカップで引き分けたペルーに初戦で2-3と敗れると、続くパラグアイ戦は0-4と大敗。3戦目の相手、ボリビアにようやく1-1と引き分けたが、グループリーグ最下位で大会を終えた。

 ラボラトリーでの十分な準備ができずに臨んだ大会で、日本のパフォーマンスも低調だった。

 そのコパ・アメリカでゲームメーカーの役割を与えられたのが、名波だった。チームはもちろん、名波自身もトルシエのスタイルを身につけていないなか、名波はチームプレーよりも、個の力による状況打開を試みたが、孤軍奮闘も空回りばかりで結果には結びつかなかった。

 大会後、トルシエは名波を「一生リーダーになれないタイプ」と批判。両者は大きなしこりを残して袂を分かった。

 だがトルシエは、その年の末にベネチア(イタリア)の名波のもとを訪れて代表復帰を要請した。

 若いグループをひとつのチームにするには、三浦知良や中山雅史のようなベテランの経験が役に立つ。しかし、彼らは常にピッチに立てるわけではない。ピッチの上でチームをまとめていくには、ゲームメーカーとしてピッチ全体に気を配れる名波の力が必要だったのだ。

 ただし、名波は所属のベネチアでレギュラーポジションを確保しておらず、ほぼ4カ月の間、実戦から遠ざかっていた。ではなぜ、トルシエは彼を呼んだのか。

「ラボラトリーの過程のなかでポテンシャルが確認されたからであり、常時プレーしていなくとも、彼なら他の選手たちに優れたクオリティを示すことができると思ったからだ。

 たとえばここベトナムでも、私のもとでA代表ではプレーしていながら、所属するクラブではレギュラーでない選手もいる。2部のクラブからも選手を招集しているし、3部の選手すらも招集した。

 選考基準は、選手がJリーグやVリーグ(ベトナムリーグ)1部に所属しているかどうかではない。真の基準はラボラトリーだ。ラボだけが私の求める答えを与えてくれる。

 名波の場合も同様だ。彼はベネチアで試合には出ていなかったが、トレーニングは積んでいた。試合に出ていない選手は、必ずしも低調だから機会を与えられないわけではない。別の理由で出られないケースもある。ベネチアのイタリア人監督(ルチアーノ・スパレッティ)は、イタリア人選手やアフリカ人選手を起用したかったから、名波を外したのかもしれない。

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