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トルシエがA代表の活動に本腰を入れた2000年――絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは? (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

 そのトレーニングを最も迅速に理解し、たちまちのうちに自分たちのモノにしていったのが、いわゆる「黄金世代」――"1999年ワールドユース組"の選手たちだった。彼らが合流することで、五輪代表でも同じ流動性が実現。その五輪代表を加えたA代表も、香港・マカオ遠征からラボラトリーで同じプロセスに入ったのだった。

「相手は我々がオートマティックに何をやってくるかわかっていないが、我々は自分たちのやるべきことをすべて理解している。だから、相手の守備に対して違いを作り出せる。それが、私の戦略であり、哲学だ。

 そして、それを実現するためには、ある程度の人数をそろえたラボラトリーが必要だ。それこそ、私が日本で実現したことであり、現在ベトナムで実践していることでもある」

 トルシエが築いたラボの効果は、アジアカップでてき面に現れた。初戦のサウジアラビアも、2戦目のウズベキスタンも、日本に翻弄された。

 日本がパス回しを始めるや、相手は日本の選手の動きについていくのが精いっぱい。たちまちスペースを生み出してしまった。そこを日本が巧みに突いて、面白いように得点を重ねた。

 結果、サウジアラビには4-1、ウズベキスタンには8-1の完勝。点差もさることながら、そのプレーのクオリティはそれまでのアジアでは目にしたことのないものだった。そんな日本の斬新なプレースタイルに、全アジアが衝撃を受けた。

(文中敬称略/つづく)◆トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ代表に再招集したのか>>

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

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