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サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで (3ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

【日本サッカー激動の4年間】

 続く1996年大会はUAEで開催された。前回の広島大会から4年の間に、日本サッカー界には大きな出来事が渦巻くことになった。まずはドーハの悲劇(1993年11月)。2つ目はJリーグのスタート(1993年5月)。3つ目はロベルト・ファルカンの監督就任(1994年5月)と、わずか9試合後の解任劇。4つ目はアジアカップ優勝で権利を得たキング・ファハド・カップ(コンフェデレーションズカップの前身大会)への出場。5つ目はゾーンプレスを掲げファルカンの後任に就いた加茂周監督の就任と解任騒動。6つ目は2002年W杯の日韓共同共催が決定したことだ。

 強化委員会が加茂監督にノーを突きつけ、当時、ヴェルディ川崎の監督だったネルシーニョの招聘に動いたのは1995年秋。つまり交代騒動は1994年、1995年と1年ごとに発生した。この時のネルシーニョの招聘は土壇場でひっくり返り、加茂監督は続投することになったが、その2年後、1997年秋、フランスW杯アジア最終予選の最中に、加茂監督は解任の憂き目に遭う。 

 1996年アジアカップに臨んだ加茂ジャパンは、グループリーグを首位で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で完敗。成績は前回の優勝からベスト8に後退した。

 いま振り返れば、加茂ジャパンはサッカーそのものに問題を抱えていた。「ゾーンプレス」なるプレッシングサッカーを標榜するも、加茂監督が実際に採用した布陣は4-2-2-2だ。ブラジルサッカーの当時の定番だが、プレスがかかりにくそうな布陣であることはその4列表記を見ただけで明らかになる。サイド攻撃をサイドバックのみに委ねるため、中央攻撃が8割方を占める。

 選手に現在ほどの技術がないことも手伝い、相手ゴール前に辿り着く前にボールを奪われた。サイドで奪われたほうが自軍ゴールから遠いので、リスクは低い。対して、中央は逆モーション、裏返しの関係になりやすい。選手の技量はオフト時代より若干上がったが、サッカー的には後退したという印象だった。

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