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サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで (4ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

【成長過程のトルシエジャパン】

 1992年のアジアカップ優勝の権利で出場した1995年キング・ファハド・カップ(サウジアラビア)では、ナイジェリアに0-3、アルゼンチンに1-5で敗れている。晴れの舞台で大国と試合する日本代表。数年前では考えられなかった光景を目の当たりにできた満足感と、大敗を事実として受け入れなければならない絶望感とが交錯する、何とも言えない気分に襲われた。アルゼンチン戦の後半、都並敏史がフリーで抜け出そうとするガブリエル・バティストゥータを後方からカニ挟みで止め、PKを献上したシーンでは頭を抱えたくなったものだ。

 2000年のアジアカップは10月にレバノンで行なわれた。チキンの丸焼きを期間中連日、食べた記憶が蘇る。レバノンはチキンのグリルが絶品だった。

 日本はグループリーグでサウジアラビアに4-1、ウズベキスタンに8-1と大差のスコアで連勝。3戦目のカタール戦(1-1)を待たずにベスト8入りを決めると、準々決勝でイラクを破り(4-1)、準決勝では中国にやや苦戦したもの逆転で勝利を収め(3-2)、決勝に進出する。そのサウジアラビア戦は1-0で勝利を飾り、日本は1992年大会に続き2度目の優勝を飾った。

 1996年からの4年の間に、日本はW杯(1998年フランス大会)に念願の初出場を果たしていた。本大会はグループリーグ3連敗という結果に終わったが、1996年から2000年は、日本サッカーが最もレベルを上げた4年間だった。1992年に広島でアジアカップを制した時とは地力が違っていた。1998年フランスW杯後に日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエのもとで、2002年日韓共催W杯に向け、顕著な右肩上がりを描いていた。とりわけ選手の技量はめざましく上昇した。

 ちなみに筆者はグループリーグの最終戦(対カタール)を観戦取材した後、準々決勝までの試合間隔を利用し、1泊3日の旅程でレバノンを離れた。向かった先はバルセロナ。バルサ対レアル・マドリードのクラシコを観戦取材するためだった。

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