サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで (2ページ目)
【アジア初制覇に貢献した森保一監督】
オフトジャパンを振り返ろうとした時、外せない選手をひとり挙げるならば森保一現日本代表監督になる。日本代表選手はそれまで無数に誕生しているが、筆者の知る限り、当時の森保選出を上回るサプライズはなかった。
つまり、圧倒的に無名だった。森保は当時、マツダに所属しており、日本サッカーリーグ(JSL)の主に2部が主戦場だった。ユース代表に選ばれたこともなければ、高校選手権で活躍したこともなかった。協会のユース担当者でも名前をきちんと読めなかったほどだ。名字と名前をどこで区切ればいいのか。森保が日本代表として最初にプレーしたアルゼンチン戦の現場(国立競技場)は試合前、そんな話で盛り上がっていた。
サプライズ度は、練習を見ているとさらに増した。「鳥かご」と呼ばれるパス回しで、決まってミスをしていたのが森保だったからだ。そのボール操作術を見ているとサプライズというより心配にさせられたものだ。しかも、オフトは森保をスタメンで起用した。守備力の低いMFラモス瑠偉の影武者として。
1992年のアジアカップで、森保は5試合中4試合で先発フル出場を飾っている。オフトがあの時、森保を日本代表に選んでいなければ、森保ジャパンは誕生していなかった可能性はある。
日本はグループリーグの3戦目でイランに1-0で競り勝ち、グループリーグを突破すると、準決勝で中国と激戦を展開。退場者を出しながらも3-2で勝利し、決勝進出を決めた。ただし決勝の相手は過去2大会優勝しているサウジアラビア。この段階になっても、まだ日本が優勝するイメージは湧かなかった。
1992年と言えば、翌年がJリーグスタートの年。このアジアカップ後には、そのプレ大会とも言うべきナビスコカップが開催された。まさにJリーグ開幕の足音が迫っている時だった。結果としてアジアカップはその起爆剤になった。
1992年、広島で行なわれたアジアカップで、日本は初優勝を飾ったphoto by Toshio Yamazoeこの記事に関連する写真を見る 広島広域公園陸上競技場(現エディオンスタジアム)で行なわれた決勝戦。スタンドは5万人を超える観衆で満員になった。この光景を見て初めて、日本サッカー界に明るい未来が待ち受けていることを筆者は確信した。カズこと三浦知良のセンタリングを高木琢也が胸トラップ。そのまま左足ボレーで叩き込んだその決勝弾は、いまだ脳裏に鮮明だ。
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