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ジーコが語った20年前の日本代表 「中田英寿、中村俊輔...日本には4人の大黒柱がいた」 (3ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

【並外れていた稲本潤一】

 それ以前の日本の選手たちは、ボールを得てもすぐに手放し、他の選手にパスをしていた。しかし、我々はそのやり方を変えた。それ以降は、選手たちはボールを足元に持ち、急がず焦らず、最高の攻撃の形になるチャンスをうかがうようになった。

 大黒柱とは中盤の中田英寿、中村俊輔、稲本潤一、中田浩二だった。彼らはインテリジェンスとプレーのビジョンでチームを支えていた。彼らのプレーは軽快でテクニカルだった。

 このチームの大黒柱たちがうしろに控えているおかげで、トップの柳沢敦と高原直泰は落ち着いて自分たちの仕事をすることができた。何より特筆すべきは、私のチームのキャプテン、稲本だった。彼は並外れた青年で、ピッチのなかで私の声の代わりをしてくれた。特に困難な状況下において、彼の存在は本当に大きかった。稲本はボールを持ってのプレーも、マークも非常にうまかった。

 それから2人の優秀なゴールキーパーに、滅多にミスをしないディフェンダーたち。また、ベンチにも優秀な選手たちが控えていた。本当に世界レベルのチームだったと思う。

 代表監督に就任したての頃、私はひとつの問題に突き当たった。私はそれまで4-4-2のフォーメーションを好んで使ってきた。このシステムのもとで成長し、選手としても監督としても多くのタイトルを手に入れてきたからだ。鹿島で重要なタイトルを勝ち取った時も、いつもフォーメーションは4-4-2だった。

 しかし、この時の日本代表のほとんどは鹿島以外の選手だった。当時の日本のクラブで4-4-2を採用していたのは鹿島ぐらいだった。他の多くは3バックで、3-5-2に近かったと思う。私の元に集まった選手のほとんどが違うシステムに慣れているのを知った時、私は、変わるのは彼らでなく自分のほうであることを自覚した。自分のメンタリティを変えなくてはいけないと思った。

 彼らが3-5-2で慣れているならば、彼らが一番力を発揮できるシステムにすべきだ。私は代表のシステムを自分の好むものでなく、選手に合わせたものに変えた。その結果は皆さんもよくご存じだろう。選手たちはピッチで自信をもってプレーすることができ、それを一番に享受したのは日本のサポーターだったはずだ。

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