東京五輪のオーバーエイジ枠は史上最強か。過去の大会とは明らかに違う (2ページ目)
五輪が(基本的に)23歳以下の世界大会と位置づけられるようになった1992年バルセロナ五輪以降、日本は1996年アトランタ五輪から7大会連続で出場しているが、これほど贅沢なOAの補強が、しかもこれほどスムーズに行なわれたのは、間違いなく初めてだ。
それは、過去のOA選考を振り返れば、よくわかる。
◆1996年アトランタ五輪(グループリーグ敗退)
【OA枠】なし
28年ぶりの五輪出場とあって、出場権をその手で獲得した選手たちを出してやりたいという空気があったうえ、まだ日本がワールドカップに出場したことのない時代でもあり、そもそもOAに国際経験豊富な選手など存在しなかった。
結局、西野朗監督はOAを使わなかったが、日本サッカー協会も何がベストなのか、よくわからなかったというのが本当だろう。
◆2000年シドニー五輪(ベスト8)
【OA枠】GK楢崎正剛、DF森岡隆三、MF三浦淳宏
A代表と五輪代表を兼任していたフィリップ・トルシエ監督は、森保一監督がよく口にする「1チーム2カテゴリー」という考え方を、今以上に具現化していた。五輪世代にも中田英寿らA代表の主力となる選手が何人もいて、ふたつの代表チームの垣根はないに等しかった。
五輪本番ではA代表の主力である楢崎と森岡、ポリバレントな三浦がOAで加わったが、適応に問題はなく、監督兼任のメリットが如実に現れた。
◆2004年アテネ五輪(グループリーグ敗退)
【OA枠】GK曽ケ端準、MF小野伸二
山本昌邦監督は、曽ケ端、小野に加え、FW高原直泰の招集も希望したが、高原の病歴(エコノミークラス症候群)がネックとなり、実現せず。小野と高原をコンビで加えるという目算が崩れる結果となった。
OAの重要性を理解していた山本監督は、U-22代表の頃から国内合宿に宮本恒靖らOAの選手を招集し、五輪本番でのOA加入を事前にシミュレーションしていたが、結果としてそれは実を結ばなかった。
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