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【プロ野球】「まず変える。理屈はあとから」 権藤博が語る球界の常識を疑い続けた近藤貞雄という異端児 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 まだシステムではなかった分業制の現実。近藤は中日のコーチを68年まで務めたあと、69年、濃人が監督のロッテに招聘された。投手コーチとして木樽正明を抑えで生かすも、当時は1イニング限定ではなく規定投球回に到達。木樽は防御率のタイトルを獲得した。

 しかし、それでも年俸が上がらず、木樽は抑え続投を拒み、自ら先発転向を志願して首脳陣を納得させる。分業制の有効性が認識され始めていても、その価値はまだ球界に浸透していなかったのである。

 ロッテでの近藤は、70年のリーグ優勝に貢献。指導者として実績をつくると、72年、監督に就任した与那嶺要の要請でヘッド兼投手コーチとして中日に復帰。74年導入のセーブ制度を追い風に、星野仙一を抑えで起用し、巨人のV10を阻止する中日の優勝につなげた。そして中日監督となった81年、二軍投手コーチだった権藤を一軍に呼び寄せ、82年にリーグ優勝を果たした。

【権藤博が認めた発想力と実行力】

「やっぱり行き当たりばったりですよ。抑えだって最初は鈴木孝政で、そのうち牛島(和彦)になり、最後は先発の小松(辰雄)を突っ込むような形でしたから。優勝した時だって、巨人が失速したことで中日にチャンスが転がり込んできたようなものです。それこそ近藤さんと私のふたりで『残ったピッチャーでいこう』『次も残ったピッチャーだ』なんて言いながらやっていたら、気がつけば勝っていた。そんな感じでしたね」

 監督としても、じつは確立できなかった近藤の分業制。権藤自身、それを反面教師にしたところもあり、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)、横浜、中日で投手コーチを歴任。横浜監督として、佐々木主浩を1イニング限定の抑えで生かし、中継ぎのローテーションを整備した98年に日本一を達成した。現在の分業制の基盤をつくった立場から、近藤という野球人はどう見ていたのか。

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