【プロ野球】「まず変える。理屈はあとから」 権藤博が語る球界の常識を疑い続けた近藤貞雄という異端児 (2ページ目)
「1年目、最初は中4日ぐらいのローテーションで回ってたんです。それが5月のある試合で完封した翌日、同点になったところで次の回から出て行って、結局、1点取られて負けるんだけど、その時に監督の部屋に呼ばれて。怒られるかな、と思ったら『稲尾でも杉浦でも、完投した翌日に投げるんだから、これからも覚悟しとけ!』って言われて。うれしかったですね」
西鉄(現・西武)の稲尾和久は監督の三原脩に抜擢され、1年目の56年に21勝、57年から3年連続30勝以上。その3年間合計で1149回を投げ、3連覇に貢献する。61年には日本記録の42勝を挙げた。
一方、南海(現・ソフトバンク)の杉浦忠は監督の鶴岡一人に重用され、59年に38勝。対巨人の日本シリーズでは4連投で4連勝。権藤にとっては、ふたりとも憧れの大エースだった。
「『なんとか10勝以上を挙げるぞ』なんて思ってたのに、あの人たちと一緒に扱ってくれたということが、すごくうれしかったんですよ。稲尾さんはその年に42勝を挙げ、杉浦さんも59年の日本シリーズで4つ勝つとかね。そんな夢みたいな記録を持つ人と一緒かと......。35勝した時よりも、そっちのほうが、今でも頭に残っていますね」
【投手分業制を本格スタート】
35勝の大エースがいても、結局、61年の中日は2位。わずか1ゲーム差で巨人に栄冠を奪われ、62年も3位に終わって濃人は辞任。
新監督に杉浦清が就任すると、「路線に合わない」という理由で近藤は解任される。その後は評論家となったが、64年のシーズン途中、成績不振で杉浦が辞任。監督代行となった西沢道夫に招聘され、近藤は一軍投手コーチとして中日に復帰した。
65年、西沢が正式に監督に就任。投手起用の権限を任された近藤は、分業制を本格的にスタートさせるべく西沢に提案している。
「ひとりのエースが八面六臂の働きをするのではなく、総合的なピッチャーのグループで勝つ時代が必ずくる。だったら1年でも2年でも、それを先取りしたほうが得ですよ」
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