【追悼】広岡達朗が語る、長嶋茂雄という「憎めない後輩」との記憶 「オレが頼みごとをすると、いつもあいつは嫌な顔をせず『いいですよ』と言う」 (3ページ目)
「ああ見えて長嶋は利口なヤツだから、表向きはオレと距離をとっているように見せていたが、実際は『ヒロさん、今日の夜空いていますか?』と一週間に一度は誘ってくる。あいつなりに気を遣っていたんだろう。毎晩のようにいろいろなタニマチが飲みに連れて行くから、長嶋も大変だったと思う。オレも連れて行かれたことがあったけど、まあすごいわな」
何がどうすごかったのか、広岡は口を割らなかったが、日本の中枢を司る財界人からきらびやかな映画スターといった社交界は、まさに現代の竜宮城だったのだろう。
「結局、試合中に家に帰ったことで、オレと川上さんとの間の溝はますます深くなり、66年に引退することになる。この時、オレのところにあいさつに来たのは、長嶋と森(祗晶)だけ。裏で川上さんが『見送りなんかするんじゃないぞ!』とでも言って、圧力をかけていたんだろう。丁寧に教えてくれたヤツがいたから、間違いない。
でも長嶋は『ヒロさん、13年間お疲れ様でした。これ、ヒロさんが大好物って言っていたから』と、ハチミツをくれた。オレ、ハチミツが好物なんてひと言も言ったことがないし、好きでも嫌いでもなかった。まあ、ありがたくいただいたけどな」
なにより広岡は、権力に屈しない長嶋の律儀さに感心したという。
【引退後も続いたふたりの交流】
そんなふたりは、互いに引退してからも交流は続いた。
1988年に『日米ベースボール・サミット』を開催するにあたって、主宰の広岡は長嶋のブランド力がどうしても必要で、正直に「ぜひとも成功させたいから、おまえのネームバリューを使わせてほしい」と話すと、「ヒロさん、全然いいですよ」と快諾し、長嶋はアンバサター的な立ち位置で盛り上げてくれたという。
「オレが頼みごとをすると、いつもあいつは嫌な顔をせず『いいですよ』と言う。ほんと、かわいいヤツだったよ。先輩である千葉(茂)さんが、巨人のブランドを圧倒的に示すために、オレを(巨人の)監督にして、長嶋をヘッドコーチにするという構想を持っていたらしいけど、もしオレが監督になっていたとしても、長嶋をヘッドコーチに置かないよ。ヘッドコーチを勘でやられたらたまらんからな(笑)」
広岡にとって長嶋は、最後までかわいく憎めない後輩だったのだ。
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。
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