「ポスト古田敦也」と呼ばれた米野智人が振り返る重圧 チャンスを掴みかけた時に訪れた体の異変 (4ページ目)
翌年の2008年7月には、二軍戦の試合中に右手親指を脱臼骨折。約2カ月で症状は回復したものの、ボールを握った時の感覚は戻らず。『本当に終わったかもしれない......』と、気持ちはさらに落ち込んだという。
「肩の強さを評価されてプロの世界に入ったのに、それができていない。『もう野球選手をやっていても仕方がないな』と思いました」
試合に出ることすらも怖くなり「毎日、嫌々ながら球場に向かっていた」という米野は、2010年5月に苦しい胸の内を当時の二軍監督に告げたが......。その約1カ月後に伝えられたのは、西武へのトレードだった。
【30歳で未経験の外野手に転向】
「『もう捕手としてプレーするのは無理かもしれない』と思っているのに、西武では捕手としての活躍が期待されている。獲得してくださった恩を感じつつも、内心では『きっとチームの力にはなれないだろう』と思っていました」
そんな米野の言葉どおり、途中加入の2010年は一度も一軍に上がることなくシーズンを終えると、2011年もわずか3試合の出場となった。
「まったく戦力になれていない自分に不甲斐なさを感じていました。『このまま現役を続けているのも申し訳ない』と思ったので、自分から引退を切り出そうとしてみたんですけど、ひとまずシーズン終了後に言い渡されるであろう戦力外通告を待ってみることにしたんです」
だが、米野の思いとは対照的に、シーズン終了後には何事もなく秋季キャンプが始まり、チームの一員として汗を流すことに。しかし、自身が置かれた状況にやや戸惑いながら出場した紅白戦でホームランを放ったことで、野球人生最大の転機が訪れる。
「僕の打撃を見た光山英和バッテリーコーチと渡辺久信監督(いずれも当時)が、『外野手として勝負したほうが、もしかしたらチャンスが増えるかもしれない』と声をかけてくださって。これまでに一度も守ったことがないポジションでしたけど、『最後くらい楽しくプレーして選手生活を終えたいな』と思って、思い切って外野手に転向することを決めました」
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