ヤクルト塩見泰隆、完全復活へ決死の覚悟で挑む2025年「もうセンターは自分の定位置じゃない」
ヤクルト・塩見泰隆は、3月4日のソフトバンクとのオープン戦に「1番・センター」で先発すると、第1打席でレフトフェンス直撃の二塁打。昨年5月11日の巨人戦で負った左ヒザ前十字靭帯と半月板損傷という大ケガを乗り越えての復活劇だった。
キャンプ中に笑顔を見せるヤクルト・塩見泰隆 photo by Koike Yoshihiroこの記事に関連する写真を見る
【チームの命運を左右する存在】
塩見はヤクルトの命運を左右する存在と言っても過言ではない。フル稼働した2021、22年、チームはリーグ連覇。ケガで長期離脱した23、24年は5位に沈んでいる。
髙津臣吾監督は「それを言葉にすると、塩見が責任を感じてしまうかもしれないですけど......」と前置きし、こう続けた。
「勝っている時、彼がチームの中心にいたことは事実です。彼がいるといないとでは、味方にも敵にも大きな影響があったと思います。(山田)哲人だったり、ムネ(村上宗隆)だったり、中村悠平だったり、ウチでいう中心選手のひとりということに間違いないです」
そんな塩見は「チームを離れたことはめちゃくちゃ悔しくて、正直、なかなか試合を見ることができませんでした」と、当時を振り返った。
「そういうなかで、仲間からの励ましはありがたかったですし、連覇した時のチームの雰囲気を思い出しながら、『ああいうのをまたやりたいな』って。野球って本当に苦しいんですけど、21年や22年は苦しいなかに楽しさがありました。それは野球をしていくなかですごく大事なことで、みんなも楽しかったと思うので、またそれをやりたいなって」
ケガのあと手術を終えると、9月後半には二軍の戸田球場でリハビリをスタート。12月、1月はほかのリハビリ選手たちとチームを組んで練習に励んだ。キャッチボール、ロングティー、外野でのノック、ベースランニング......野球の動きが一つひとつと増えていった。
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著者プロフィール
島村誠也 (しまむら・せいや)
1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。