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高山郁夫が語る「外国人選手の生かし方」 元オリックス・ディクソンの場合 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

【コーチになって生きた留学経験】

── コミュニケーションは通訳の方を通してですか?

高山 基本的にはそうです。「ちゃんと訳してよ」と冗談を言いながら(笑)。

── 言語や国籍が違っても、話していくとだんだんほぐれていくものですか。

高山 それは自分ではわからないですね。そもそも私は外国人選手に対する違和感を持っていなかったので。現役時代の1984年と1986年にアメリカ留学をさせてもらって、日米の文化の違いをはっきりと体感することができましたから。コーチになってからは、その経験が生きたと感じています。

── 日本式を強制するのではなく、まずその人物を理解することから始めるということですね。

高山 過ごしてきた文化も考え方も違うのですから、戸惑うのは当然です。以前にもお話ししたように、その選手の根本的な部分を理解しないことには始まりません。

── ディクソン投手は2016年の小サイトのインタビューで、高山さんについてこうコメントしています。一部引用します。

<日米を通して、僕が指導を受けたなかで、彼は最もすばらしいコーチのひとりです。彼は僕のすべてを変えようとしたわけではなく、まず僕がどんなピッチャーなのかということを理解しようとしてくれて、その上でいいところを伸ばそうとしてくれました。自分のピッチングスタイル自体は、日本に来てからそんなに変わっているわけではありません。でも、精神的にはすごく成長したと思います。以前よりも打者を理解できていると思うし、場面によって的確に判断できるようになってきました>

── まさにコミュニケーションを通して信頼関係を築いたことが伝わってきます。

高山 ディクソンがそのように考えてくれていたとは、うれしいですね。私も彼のようなクレバーな選手と出会えて幸せでした。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

著者プロフィール

  • 菊地高弘

    菊地高弘 (きくち・たかひろ)

    1982年生まれ。野球専門誌『野球小僧』『野球太郎』の編集者を経て、2015年に独立。プレーヤーの目線に立った切り口に定評があり、「菊地選手」名義で上梓した『野球部あるある』(集英社/全3巻)はシリーズ累計13万部のヒット作になった。その他の著書に『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』(インプレス)『巨人ファンはどこへ行ったのか?』(イースト・プレス)『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など多数。

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