広岡達朗が語った渡邉恒雄との知られざる縁 「ナベツネの最大の功績は...」
「巨星墜つ」という言葉が、これほどふさわしい人物もいないだろう。
昨年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆、読売巨人軍元取締役最高顧問として各界で辣腕を振るった渡邉恒雄が、98歳で肺炎のため都内の病院で逝去した。
戦後の政治と流通の仕組みを近代社会に適応させた読売の首領だけに、各界から悼む声が相次いだのは記憶に新しい。そんな渡邉氏と、野球界最後の名将として生きる伝説の巨人軍OB・広岡達朗には、あまり知られていないが深い縁があった。
1992年オフに巨人の監督に復帰した長嶋茂雄氏(写真右)と渡邉恒雄氏 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【手紙でやりとりする仲だった】
広岡が生前の渡邉について、静かに語り始めた。
「ナベツネ(渡邉恒雄)とは、手紙のやりとりをしていた時期があった。1988年に巨人の監督だったワンちゃん(王貞治)が、5年目のシーズンを終えて辞任した。そのシーズン中、早稲田大の先輩である岩本堯さんが巨人のフロントにいて、オレのところに監督就任の打診をしに来たんだ。でも、すぐに断ったよ。その時に『優勝できないからといって、球界の至宝であるワンちゃんを切ってはならない。優秀なヘッドコーチをつければ勝てる』と言ったんだが、結局、事実上の解任となった。その頃、ナベツネは(読売新聞社の)副社長だったかな。
その後、社長になって、しばらくしてから手紙が届いた。『あの時、私はまだ若く、力及ばずでしたが、もしあなたを巨人の監督に迎えていれば、歴史は変わっていたでしょう』と直筆で書かれていたよ」
1984年、王貞治が巨人の監督に就任し、4年目の1987年にリーグ優勝を果たすも、日本シリーズで西武に敗退。そして迎えた88年は「東京ドーム元年」ということもあり、なんとしても優勝を果たしたかったが、中日に12ゲーム差をつけられ2位に終わった。そのシーズン中から、次期監督候補として広岡の名前が挙がっていた。
「ワンちゃんのあとになんのためらいもなく、監督に就けると思ったら大間違いだ。だから、すぐに断った」
かつて、長嶋茂雄が1980年オフに監督を辞任した際、日本中に激震が走った。建前上は辞任だが、実際は事実上の解任とみなされ、巨人はファンから猛反発を受けた。だからこそ広岡は、「繰り返してはならない」と監督要請を固辞した。
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。