広岡達朗が語った渡邉恒雄との知られざる縁 「ナベツネの最大の功績は...」 (2ページ目)
当時、巨人軍のオーナーは正力亨、読売新聞社の社長は小林與三次だったが、読売グループの最高実力者は名誉会長の務臺光雄(むたい・みつお)だった。務臺は絶対的権力者であり、1980年の長嶋解任を決めた張本人でもあった。一方、渡邉は社長の小林の下におり、上層部を押しのけようとするたびに務臺に睨まれていた。
「務臺さんは"反長嶋"と言われていたが、別に嫌いだったわけじゃない。ただ監督として長嶋ではダメだと思ったから、川上(哲治)さんを支持しただけ。オレは務臺さんとはほぼ交流がなかった」
1991年に務臺が死去したあと、渡邉は読売新聞社の社長となり"ナベツネ"時代が到来する。
【ナベツネの最大の功績】
そもそも超インテリの渡邉は、学生時代からカントやヘーゲルの哲学書を貪り読み、真剣に哲学者を志していた。1945年に東京帝国大学(現・東京大学)に入学するも、すぐに学徒動員で徴兵され、戦争を体験。戦後の混乱期に共産党へ入党するが、肌が合わずすぐに脱党。
その後、読売新聞社に入社し、26歳で政治記者として永田町に足を踏み入れることとなる。彼は深い洞察力と知識を生かし、政治家とのコネクションを築きながら、マスコミの権力を背景に政界への影響力を強め、キングメーカーへと成長していった。
一方で、マスメディアの経営者でありながら、自民党や官僚など財界と一体となり、権力側に回った独裁者とも揶揄された。それでも渡邉のように政府と協力しながら是正策を講じる存在も、時には必要とされた。
1996年、渡邉は正力亨を名誉オーナーにし、自ら巨人軍オーナーに就任する。
「ナベツネからの手紙をきっかけにちょくちょくやりとりをし、毎年、盆と暮れには贈り物も届いていた。でもオレが、巨人批判やコミッショナーの機能不全について厳しく指摘すると、贈り物も来なくなったよ。
でもナベツネの最大の功績は、1992年のオフに長嶋を巨人の監督に復帰させたことだ。Jリーグが発足し、プロ野球人気を考えての英断だった。務臺さんが存命の間は長嶋の復帰は絶望的だったから、ナベツネが読売新聞社の社長になったことで実現したというわけだ。巨人の監督は"読売新聞社の権力の鏡"とも言われていたから、ナベツネの影響力がいかに大きかったかがわかる」
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