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岩瀬仁紀はプロ人生唯一の先発マウンドに上がり、10勝目を挙げた「先発させてもらえないですか」とコーチに直訴 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「社会人では1年目、ケガだらけでほとんどゲームで投げられなかったんです。肩を痛めたり、腰をやったり。ただ運よく、というかね、投げられないなかで走ってばっかりで、練習量も違ったので体力がついて......2年目に一気に開花しました」

「開花」の背景に、チームのコーチから伝授された高速スライダーの習得があった。そして98年春、 岩瀬は地方大会で好投を続け、特に強打のチーム相手の完封、完投が光り、一躍、その名が全国区になる。夏の都市対抗には新日鉄名古屋の補強選手として出場。1回戦の東芝府中戦に先発し、5回3失点で敗戦投手となったものの、プロからの高い評価に変わりはなかった。

「春の大会で一気にスカウト陣が集まってきて、『ドラフト間違いない』みたいになって、そこからですよ、実際にプロを意識したのは。ただ、都市対抗の時はちょっと背中を痛めて、まともなピッチングができないまま終わったので、『プロ行って大丈夫かな......』って不安になりましたけどね」

【ほろ苦いプロ初登板】

 愛知の高校、大学、社会人を経て、99年、愛知のプロ野球チームに入団。当時の監督は「闘将」と呼ばれ、選手に対する厳しさでも知られる星野仙一だった。投手出身の指揮官から、どのような指導を受けたのか。

「指導というよりも、常に怒られてたので(笑)。何でというか、何やっても怒られましたね。面と向かっては、現役の時に褒められたことがなかったです。ただ、あの人がすごいのは、マスコミに対して、たとえば『岩瀬がどうだった』ってしゃべる時に、絶対そういうところではけなさなかったこと。だからそのあたり、うまく操られていたのかなとは思います」

 プロ初のマウンドは4月2日、広島との開幕戦だった。中日1点リードの6回二死二塁から、岩瀬は二番手で登板。すると前田智徳、江藤智、金本知憲の中軸に3連打されて逆転を許し、一死も取れずに降板。味方打線が再逆転してゲームには勝ったが、試合後、監督の星野は「オレの采配ミスや」と言った。けなさなかったが、岩瀬投入を「ミス」と言ったのは明らかだった。

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