岩瀬仁紀はプロ人生唯一の先発マウンドに上がり、10勝目を挙げた「先発させてもらえないですか」とコーチに直訴
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
岩瀬仁紀が日本一のクローザーになるまで(前編)
小林雅英がロッテから1位指名(逆指名)された1998年のドラフト。のちに絶対の抑えとなる同世代の投手がもうひとり、中日から2位で指名(逆指名)された。通算407セーブの日本記録を持つ左腕、岩瀬仁紀である。奇しくも小林と同じく、日本プロ野球にセーブ制度が導入された74年生まれ。大学・社会人を経てのプロ入りだったことも共通している。
ただ、プロ2年目から抑えとなった小林と違い、岩瀬は1年目から中継ぎで活躍。それも、落合博満が監督に就任するまでの5年間と長い。ならば、その実績が、史上最高の抑え投手をつくり上げたのか。先発への未練、願望はなかったのか。通算1002登板も日本記録の岩瀬に、じつは打力が光っていたという大学時代の話から聞く。
プロ1年目からリーグ最多の65試合に登板した岩瀬仁紀 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【大学時代は投打二刀流】
「もともと大学にはピッチャーで入ったつもりではいたんですけど、監督のほうから『野手なら1年生から使ってやる』って言われて。じゃあ......と思って。試合に出たいんで(笑)。『外野やります』というところから始まったんですね」
愛知・西尾東高ではエースだった岩瀬だが、卒業後、愛知大学リーグの愛知大に進学すると、1年春から外野手としてレギュラーで出場。左の強打者として活躍し、ベストナインに4度も選出されるまでになる。それでも3年生の秋、自ら登板を志願したという。
「ちょうどチームに主力ピッチャーがいなくなった時だったので、じゃあ自分がやってもいいんじゃないかな、っていうぐらいの気持ちで監督に言ったんです。そしたら『やってみろ』って言われて。で、日曜日だけでしたね、第2戦がある日曜日に投げるようになりました」
ただ、転向ではなく投打二刀流。4年時にプロを意識したのも、外野手としてのこと。実際、神野純一(愛工大→中日)が持つ愛知大学リーグの通算安打記録=125安打に迫るほど打力は高かった。だが最終的に124安打に終わったことで"打"をあきらめた岩瀬は、投手として社会人入りを目指し、97年、NTT東海に入社する。
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など