定岡正二と篠塚和典が明かす長嶋茂雄エピソード 「おい、定岡! 相撲をとるぞ」「シノ、腐るなよ」
定岡正二×篠塚和典
長嶋一次政権"投打のドラ1コンビ"対談 中編
(前編:高校時代と、巨人の若手時代 原辰徳は「ほかの選手とは違った」>>)
巨人で長らく主力打者として活躍した篠塚和典氏と、江川卓氏や西本聖氏とともに先発3本柱として活躍した定岡正二氏による対談の中編。長嶋茂雄氏とのエピソードを中心に、定岡氏の広島戦での強さなど、当時の印象的な出来事を振り返ってもらった。
1975年、巨人の指揮を執った長嶋茂雄 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【定岡が感じていた期待】
【動画で見る】原辰徳、地獄のキャンプ裏話 篠塚和典×定岡正二 スペシャル対談①
――定岡さんは1982年にキャリアハイとなる15勝を挙げ、江川卓さん、西本聖さんとともに先発3本柱としてチームを牽引しました。
定岡正二(以下:定岡) 僕は二軍暮らしが長かったですが、土台をしっかり作った自負がありました。なので、一軍で1勝できれば勝ち星を積み重ねていく自信はあったんです。1980年にプロ初勝利を含む9勝、1981年に11勝、1982年に15勝を挙げることができて、「やってきたことに間違いはなかった」と思いましたね。
昔の巨人は、二軍で成績を残しても、一軍で2、3回ダメだったら二軍に落とされる感覚がありました。常にあとがない精神状態で集中できたこともよかったのかもしれません。
――定岡さんのプロ1年目は、長嶋茂雄監督の第一次政権の1年目。長嶋監督からの期待も感じていましたか?
定岡 入団したときに「20勝するんだ!」と背中をたたかれましたし、「20」の背番号を背負ったこともあって期待は感じていました。1982年には15勝しましたし、次のシーズンは20勝に到達できるんじゃないか、とも思いましたが......。1982年がピークになりましたね(笑)。
篠塚和典(以下:篠塚) 1983年は、春先に6連勝したり絶好調でしたよね。でも、腰痛を発症したのが痛かった。自分も、腰痛には長く悩まされましたが。
――少しさかのぼりますが、定岡さんが11勝を挙げ、リーグ優勝と日本一を達成した1981年はいかがでしたか?
定岡 僕らは巨人に入団した当初から、「優勝だけではダメだ。日本一じゃないと巨人は世間から認められない」と教育されていましたから。そういう意味では、日本一になって壁を乗り越えた実感はありましたね。
シノ(篠塚氏の愛称)は日本シリーズ第6戦でタイムリーも打ったけど、このシーズンはシノもすごく活躍したよね。若い選手たちが台頭し始めて、みんながいい感じでプレーしていたと思います。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。