ヤクルト高津臣吾監督が見据える2025年シーズン 「もうコーチにも選手も遠慮しないことにしました(笑)」 (4ページ目)
── 若手の台頭が待ち望まれるなか、村上選手が早ければ来年オフにメジャー挑戦する可能性があります。
髙津 日本とはまた違ったすばらしい野球が待っているので、若い選手のメジャーへ行きたいという気持ちは止められないですよ。今はテレビ中継もたくさんあるし、アメリカから帰ってきた人からの話も聞ける。見て、聞いて憧れるのは当然のことですし、チームとして"三冠王"の実績があるムネがいなくなることは、すごく痛いです。でも、この感情というのは僕らでは止められないものだと思っていますし、行くチャンスがあれば、その時までしっかりチームに貢献して、チームメイトが「行ってこい!」と快く背中を押してくれるのであれば、僕は行くべきだという考えです。アメリカで経験する野球というのは、将来必ず「行ってよかった」と思える経験です。
── 2025年、これまでの悔しさを晴らすために、どのような戦い方を思い描いていますか。
髙津 こういうチームにしたい、こういうシーズンにしたい、こういうゲームにしたいという理想はあります。ただ実際は、なかなかうまくいかないのが現実です。しっかり現状を把握して、口で言うのは簡単ですけけど、強いチームをつくっていきたい。そのためには、もう遠慮しないことにしました(笑)。コーチにも注文をつけさせてもらうし、選手も厳しいところでは「頑張れ」とケツを叩きます。それが勝ちにつながるのであれば、ガツガツいきたいなと思っています。
── 髙津監督が指揮を執った5シーズン、チームは6位、優勝、優勝、5位、5位と極端な成績で、優勝した時は貯金20以上、優勝できなかった年は借金20以上です。
髙津 そうですね(笑)。単純なコメントで申し訳ないですけど、10個の勝ち負けでそこの差がついてくるので、10個の負けゲームを勝ちゲームにしたいですね。来年はみんなで、ヒリヒリした充実のシーズンを送りたいと思っています。
高津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日、広島県生まれ。広島工業高から亜細亜大を経て、1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に、ヤクルト黄金時代のクローザーとして活躍。2003年には通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、シカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、メジャーでもクローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年には独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督として、チームを日本一へと導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任し、17年から二軍監督を務めた。その後、20年に一軍監督に就任し、21年、22年とセ・リーグ連覇。21年には日本一に輝いた
著者プロフィール
島村誠也 (しまむら・せいや)
1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。
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