江川卓から大学時代に8打数7安打 「江川キラー」となった豊田誠佑は中日にドラフト外で入団した (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

「82年のオープン戦でケガしちゃったんだな。鴨池球場でのロッテとのオープン戦で三宅宗源から左手首にデッドボールを食らってしまった。それで終わり。でも、このケガがなかったら天狗になっていて、こんなに素直じゃなかったかもしれないね(笑)。だから、36年もドラゴンズに置いてもらえたんだと思う」

 レギュラーを獲るかと思われたが、ケガにより控えに回った。実力だけでなく、運とタイミングが計られるのがプロ野球の世界である。

【代打として生きることを覚悟】

 それでも豊田は、勝負強いバッティングでチームに貢献。勢いに乗ると手がつけられず、自ら「お調子者」と言うくらい、意気に感じてプレーするタイプであり、プライベートでも分け隔てなくやさしく接し、誰からも愛されるキャラクターだった。

「(平野)謙さんがレギュラーを獲り、チームもリーグ優勝。もうレギュラー奪取は無理だなと思った。デッドボールで手首を痛めたからといって休めないし、それをかばっているうちに肩も痛めてしまって......」

 いつも元気な豊田が、少しだけセンチな気持ちを見せた。

 レギュラー奪取はあきらめたが、野球人生は続く。豊田はなんとか気持ちを切り替えて、代打として生きる覚悟を決めた。

「代打は30歳を過ぎないとダメだね。若いうちは割り切りがうまくできず、なんでも打とうとしてしまう。それでは結果が出ません。『ここは三振でもいいから、真っすぐ以外は手を出さない』とか、代打はそれくらいの割り切りが必要になる。若い子は結果を出すことしか考えないから、代打は厳しいよね。僕も最初はそうだった。

 いつ呼ばれるかわからないから、とにかく準備だけはしておく。代えられそうなヤツの内容を見て、『こりゃ全然合ってないから、あるかもしれない』とバットを振る。そうするとコーチから『いくぞ』って言われます。ただ江川さんが先発の時は、よくスタメンで使われました。だって、"江川キラー"だからね(笑)」

 豊田はプロで生き抜く道を見つけ、"江川キラー"の冠を堂々と掲げ、怪物と対峙してくのだった。

(文中敬称略)

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江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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