自称・三流の五十嵐英樹が発奮した権藤監督からのひと言 大魔神につなぐ中継ぎとして日本一に貢献 (3ページ目)
でも、打たれた時って、いいボールがいってない場合もある。そんな時に『いま投げてもなぁ』という気持ちもある。だから半々かなと。ただ、98年の佐々木さんも打たれて1回だけ負けてますけど、次の日もギリギリで抑えて......。『やっぱ佐々木さんでもこうなるんや』って思うぐらい抑えってしんどいものだし、自分みたいに『いま投げてもなぁ』なんて思ってられないわけです」
【初めてゾーンに入った】
98年7月7日、大阪ドームでの阪神戦。1対0で9回に登板した佐々木は、二死一、二塁から矢野輝弘(=燿大)に2点タイムリー二塁打を打たれサヨナラ負け。翌日は同じ相手に同じ1対0で「やり返した」佐々木だったが、バックの好守もあって薄氷の勝利だった。五十嵐にとっては、あらためて「最後の3つを取る」難しさを実感した2試合だった。
「数は少ないけど、僕も抑えをやったことがあって、しんどさがわかっていただけに『その仕事をずっとやってきた方なんだ』という尊敬の思いはありました。だから振り返ってみると、ブルペンではみんな空気づくりをしていましたね。佐々木さんが何の問題なく、すんなりマウンドに行けるように。佐々木さん自身のルーティーンもあって、投げる場所もキャッチャーも決まっていましたし。
今の横浜スタジアムのブルペンは3人同時に投げられるんですけど、当時は2人だけでした。だから試合展開によって、どうしても2人同時に肩をつくらないといけない時、佐々木さんがいつも投げる場所で投げなきゃいけない。佐々木さんが肩をつくる時間が迫ると、『早く代われへんかなぁ』とか思って。佐々木さんは何も言わないけど、みんなそういうふうに思っていたはずです」
唯一、佐々木で敗れたあと、打線が爆発したチームは7月に10連勝。8月は半ばから停滞したなか、同28日、横浜スタジアムでの広島戦で五十嵐がチームを救うことになる。序盤に7点リードも7回に7対6と1点差に迫られ、なおも無死二、三塁。5回から先発・川村をリリーフした阿波野がつかまっていた。ここで権藤は五十嵐にスイッチすると、ひと言だけ言った。
「仕方がないからおまえが行け」
3 / 4