自称・三流の五十嵐英樹が発奮した権藤監督からのひと言 大魔神につなぐ中継ぎとして日本一に貢献 (4ページ目)
信用しているのか、いないのか。よくわからない言葉だが、ヒゲ魔神に変身している五十嵐は聞き流すだけだった。打席には4番の金本知憲。一打逆転の確率も高い相手だが、スライダーで空振り三振に仕留めて雄叫びを上げる。つづく5番・江藤智も見逃し三振でまた雄叫び。そして、6番の緒方孝市を迎えた。
「その時、僕、初めてゾーンに入ったんです。カウント2−2になって最後、三振狙いにいく時、足を上げた瞬間からもう動きがスローになったんですね。ボールが指先から離れていって、全体の動きがスーッとなって、全部、ボーッと見える。うわー!って驚いて。そんな体験、野球人生で1回だけですけど、三者連続三振を取れてよかったです」
五十嵐の快投に刺激されたのか、打線はその後、6点を取って13対7で勝利。敗れれば2位・中日に肉薄される試合を取り、9月の横浜は14勝8敗。6月後半から首位の座を守り続け、10月8日、甲子園での阪神戦で優勝を決めた。2対3の8回に打線が2点を取って逆転すると、権藤はその裏から佐々木を投入。1イニング限定の抑えは、最後の最後、2イニングを投げた。
「佐々木さんは抑えというより、ずっとチームの柱でした。特に98年は、野手も含めたみんなが『佐々木さんにつなぐ』っていうチームの形だったんです。阪神のJFKとかロッテのYFKとか、そういう3人衆がいたわけじゃないけど、僕らも『佐々木さんにつなげ』っていう思いがあって、頑張れたわけで──。感謝しています」
(文中敬称略)
五十嵐英樹(いがらし・ひでき)/1969年8月23日、大阪府出身。東海大工高から三菱重工神戸を経て、92年のドラフトで横浜から3位指名を受け入団。1年目からリリーフで27試合に登板し、2、3年目は先発もこなした。98年は佐々木主浩につなぐセットアッパーとしてリーグ優勝、日本一に貢献した。2001年の引退後は球団職員として、スコアラー、プロスカウトなどを歴任。プロ通算245試合登板、32勝28敗9セーブ、防御率4.13
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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