大手自動車メーカーの内定を蹴ってプロ入り 4年目の大躍進を遂げたヤクルト・丸山翔大は「あの時の決断について話すはまだ早い」 (5ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

 今から4年前、丸山は地元の大手自動車メーカーへの就職が内定していたが、断りを入れてプロ志望届を提出。そしてヤクルトから育成4位で指名を受けた。

「プロ入りが決まった時、大学の監督からは『支配下と育成では条件面で違うからしんどいと思うぞ』と言われました。それをすべてわかったうえで野球を続けると決めた以上、『やるしかない、頑張ろう』と。プロに入ってからは、ドラフト同期に同じ歳のナオ(木澤尚文)、山野(太一)、(元山)飛優(現・西武)、並木(秀尊)がいて、ほかに高卒で入った(古賀)優大、ハセ(長谷川宙輝)、梅野(雄吾/現・中日)、(寺島)成輝(現役引退)がいて、自分だけが背番号3ケタだったことが本当に嫌でした。でもそれが、『絶対に自分もみんなと同じ場所に行ってやるんだ』と強いモチベーションになっていました」

 4年前にプロ志望届を提出すると決断したことについては、「まだ始まったばかりなんで」と苦笑いした。

「大学の監督からは、今も『就職したほうがよかった』と言われますし、あの時の決断について話すには、まだまだ早いです。でも10年先、15年先に『野球をやっていてよかった』と思えるようにしていきたいですね」

 来年、大きく"翔(はばた)く"ための準備は着々と進んでいる。

著者プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

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