佐藤道郎は「初代だけは獲らしてください」と野村克也に懇願 プロ野球最初の「セーブ王」に輝いた (4ページ目)
「だから契約更改の時、当然、セーブのことは言ったけど、ブルペンで無駄ボールをどれだけ投げてるかってことも言ったし、監督がホッとするんだから安心料くださいとも言った(笑)。ただ、セーブができても、南海はAクラスに入らないとあんまり給料上げてくれなかったから」
76年、16セーブで2度目のタイトルを獲った佐藤だったが、その年、阪神から江夏豊が加入。同年の江夏は先発中心に36試合に登板するも、6勝12敗9セーブという成績に終わった。左腕の血行障害などの故障に持病の心臓疾患もあって、翌77年5月、江夏はリリーフに転向することになる。むろん監督の野村が決めたことだったが、佐藤の胸中はどうだったのか。
「いやもう、オレは先発したくてしょうがなかったの。最多セーブ獲ってもね、給料そんなに上がらないんだもん。やっぱり当時はまだ、先発で2ケタ勝利ってのが一番で。だから監督室に呼ばれてさ、『ミチ、おまえ先発したいって言ってたよな。江夏、長いイニング投げられそうもないんで、抑えにする』って言われて、もう大喜び。で、その年、12勝したのかな」
初代セーブ王は、あくまで先発を目指していた──。77年、38登板で20試合に先発した佐藤は12勝10敗。202回2/3を投げて防御率3.46という成績を残した。が、78年は不振に陥り、オフに大洋に移籍。再びリリーフ専任となったが、右肩を故障した80年限りで現役を引退した。
実働11年で通算500試合登板と、短くも太い投手人生だった。引退後はロッテ、中日、近鉄で投手コーチを歴任し、2004年から06年までは中日で二軍監督を務めた。
「コーチの時も二軍監督の時も、合言葉があった。『低く低く投げたらー、ピッチャーはー、給料が高く高くなるー』っての(笑)。オレみたいに球遅くても、低く投げたら抑えられるんやから。あとは、サヨナラヒット打たれたヤツに、『何しょぼくれてんだぁ、オレは3試合連続だよ。まだ1試合だ、くよくよすんな』って言えた。それで少しは気がラクになったと思うんだよね」
(文中敬称略)
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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