佐藤道郎は「初代だけは獲らしてください」と野村克也に懇願 プロ野球最初の「セーブ王」に輝いた (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 2試合目の福本はホームランなんて頭にない。ノースリーになったからフォアボールもヒットも一緒だと思って投げたら、カーンって。次の日に新聞見たら、プロ入って初めてノースリーから打ったって。で、3試合目はレフトにしか飛ばない長池さんがライトポール際だから。なんかもう、取り憑いちゃったね、あの時は。どれも信じられないことだもんなぁ」

 翌4日、「ミチ、行けるか?」と野村に聞かれた佐藤は、「今日、投げたくないです」と言った。じつは行く気でいたが、「チームに申し訳ないから」という理由で辞退したという。野村の談話と言葉、佐藤の心境から、監督と抑え投手との強い信頼関係がうかがえる。

 同年からパ・リーグは前期後期制となり、南海は前期優勝。後期優勝の阪急と対戦した5試合制のプレーオフは3勝2敗で制してリーグ優勝を果たし、2勝を挙げた佐藤がMVPとなった。これは信頼関係の現われと言えるだろうし、日本シリーズでは巨人に1勝4敗も、抑えを生かしての優勝は時代に先駆けたものだった。

 そして、74年1月10日。日本野球規則委員会で投手のセーブ規則の採用を決定。2月には最多セーブ投手の表彰が決まった。同年の佐藤はプロで初めて先発がなく、3年連続でリーグ最多となる68試合に登板。7勝8敗で初めてのセーブは13を数え、初代セーブ王になった。しかも、131回2/3で規定投球回に到達し、防御率1.91で2度目のタイトルを獲得した。

「野村さんに『初代だけは獲らしてください』ってお願いしてたの。『ずっとリリーフやってたんで』と言ったら『わかった』と。ただ、その74年は13セーブですよ。当初はね、セーブがつくのは1イニングで2点差だったから。今は3点差だけどね。だから当時、3点差でいくと、やっぱり『ただ働き』って言ってたぐらいだからね。何もないなって」

 セーブ制度はできたものの、ブルペンでの準備は変わりなかった。コーチからは「打たれたらいくぞ」と言われるばかりで、結果的に無駄なボールを投げることは何度もあった。それでも、ブルペンで用意している自分が監督の安心材料になっていると思えば、文句は言えなかった。

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