阿波野秀幸が語る『10・19』「ダブルヘッダー第2戦の10回裏、0点で抑えたことに大きな意義があった」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 10回裏の守りは虚しく、やるせなかったのではないですか。

阿波野 でも、あの10回裏を0点に抑えたことが、僕ら選手にとっても、ファンの方にとっても大きな意義があったと思います。「僕たちが優勝を逃したのは、試合に負けたからじゃない。時間切れ引き分けだから、時間に負けたんだ。もう1イニングやれたら勝っていたかもしれない」と。みんな、気持ちの部分で納得できていないからこそ、『10・19』は語り継がれ、翌年につながっていったのです。あの試合に負けていたら、「やはり力がなかったんだな」で終わっています。みんなよく守ってくれました。

── そもそも論になりますが、仰木監督の阿波野さんに対する信頼感は感じましたが、一方でその年10勝24セーブを挙げていた"守護神"の吉井理人さんの2試合とも交代はどうだったのでしょう。

阿波野 僕も引退後に投手コーチを務めたのでわかりますが、本来なら1年間クローザーを務めてきた投手が最後を締めくくるべきです。ただ、引き分けも許されないあの日に関しては、吉井の投球が荒れていました。吉井は、第1戦の8回こそ0点に抑えましたが、9回に先頭打者を四球で出塁させてしまいます。第2戦では7回に登板して2失点でした。(自分のことに関して)「10・19限定ストッパー」と前もって準備していたように思われていますが、実際は吉井の調子がよくなく「急いで肩をつくってくれ」というダグアウトの指示だったのです。

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阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)/1964年7月28日、神奈川県出身。桜丘高から亜細亜大学を経て、86年のドラフトで近鉄、巨人、大洋による競合の末、近鉄が交渉権を獲得し入団。入団1年目に、最多奪三振王(201個)、新人王のタイトルを獲得。88年、伝説となる「10.19」のダブルヘッダーに連投し悲劇を経験。89年、最多奪三振(183個)と最多勝利(19勝)のタイトルを獲得し、悲願のリーグ優勝を果たす。その後、95年に巨人、98年に横浜(現・DeNA)に移籍。98年は50試合に登板するなど日本一に貢献。2000年に現役を引退。現役引退後は巨人、横浜、中日のコーチを歴任。現在は解説者として活躍の傍ら、ジャイアンツアカデミーのコーチも務めている

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