江川卓、二度目のドラフトはクラウンが強行指名も拒否 大物政治家を巻き込む「大騒動」へと発展した (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 だが、クラウンが江川を強行指名。これはオーナーの中村長芳の強い意向でもあった。

 中村は同郷・岸信介(元首相)の筆頭秘書から72年にプロ野球の経営に乗り出し、パ・リーグ5回、日本シリーズ3連覇の西鉄ライオンズの経営危機に伴い球団を買収し、福岡野球株式会社を設立した。太平洋クラブと5年間のスポンサー契約を結び、その後釜として77年からクラウンライターが新たなスポンサーとなった。

 親会社をつけず、年間数億円のスポンサー契約だけで運営しているのは、12球団のなかでクラウンだけだった。

 本拠地・平和台球場の平均観客数は約5千人で、福岡大のグラウンドを間借りして練習するなど極貧球団であり、毎年身売り話が出ていた。

 クラウンとしては、江川を獲得することで経営の立て直しができると判断したのも無理はない。一方で、西武への球団譲渡の話も水面下で動いており、江川卓という付加価値の高い選手がいれば、より高く売れるという算段があったとも言われている。

 いずれにしても、江川はクラウンから指名を受けた。ただ、法政大野球部同期の金久保孝治によれば、「別にクラウンに絶対行きたくなかったわけではなかった」と証言するように、江川自身も最初から断固拒否ではなかった。

 これはリップサービスなのだろうが、「クラウンはバランスの取れたいいチーム」「福岡も住めば都」といった類の発言もしている。その一方で、「巨人に行きたい」とはひと言も発していない。

 結局、親族が商売をやっている関係上、九州のチームは遠すぎるということで、12月3日に会見を開き、クラウンライターライオンズへの入団拒否を示した。

 そして自民党副総裁で作新学院の理事長でもある船田中(ふなだ・なか)が、江川の後見人になった頃から、話はきな臭い方向へと進んでいく。クラウンの指名は、"江川騒動"の序章にすぎなかった。


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る