江川卓、二度目のドラフトはクラウンが強行指名も拒否 大物政治家を巻き込む「大騒動」へと発展した (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 大会通算の三振記録を狙うのならばそのまま続投するが、江川は自分の記録に興味などない。だから六大学リーグの通算勝利数記録にあと1と迫っても、江川は記録のためにマウンドに上がることはなかった。

 江川は高校時代から自分ひとりで勝つのではなく、チーム一丸となって勝利することを求めた。それでも江川の圧倒的なピッチングの前に相手は手も足も出ず、ワンマンショーになることは多々あった。

 江川の大学4年間の通算成績は、71試合登板で47勝12敗、防御率1.16、奪三振443。神宮の杜でも"怪物"の名に恥じない快投を続け、法政大の黄金時代を築いたのだった。

1977年12月3日、記者会見でクラウンへの入団拒否を表明する江川卓(写真左) photo by Sankei Visual1977年12月3日、記者会見でクラウンへの入団拒否を表明する江川卓(写真左) photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【クラウンが江川を1位指名】

 二度目のドラフト会議が近づくにつれ、また江川の周辺が騒がしくなる。高校3年だった4年前も、阪急から1位指名を受けた。この時はプロ志望ではなく、大学進学を公言していた矢先の指名だっただけに、江川サイドも驚くしかなかった。阪急としては、急転直下のプロ入りを狙っての指名だったが、江川の意思は固く、入団交渉は早々に終結した。

 だが今回は違う。大学4年の間に、三振を狙いにいくピッチングを封印し、少ない球数で打ちとる老獪なピッチングを身につけた。本気で完全試合やノーヒット・ノーランを狙えば、一度くらいは実現できたであろう。それをしなかったのは、肩に負担をかけないためだ。

 そうして迎えた11月22日、運命のドラフト会議が始まった。この頃のドラフト会議は指名順位抽選方式で、まずその年のペナントレース下位チームから予備抽選のクジを引き、本抽選の順番を決める。1位指名の重複は認められず、一度指名された選手は指名できないルールで、2巡目以降の指名順位は折り返しとなる。

 つまり最初の1位指名は、この年のドラフトナンバーワンの称号を与えられるというわけだ。

 1977年のドラフトは、クラウン(現・西武)が予備抽選で1番を引いて、巨人は2番だった。ドラフト前、江川は在京球団希望で、クラウンは一番行きたくない球団という情報が入っていた。そうしたこともあり、会場内では巨人が江川を指名するのだろうという雰囲気が漂っていた。

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