江川卓の作新学院を「5度目の正直」で破った銚子商 ターニングポイントはセンバツでの屈辱的大敗 (4ページ目)
試合は死闘の末、延長12回、サヨナラ押し出しで銚子商が勝利した。高校2年夏の作新学院戦の映像を見ながら土屋に話を聞いていると、「やっぱりコントロールがいいね」と自画自賛し、「あんなに腕が大きく振れているよ」とテイクバックの大きさにびっくりしていた。あの時はヒジも肩も致命傷ではないため、思いきり腕を振れている自分の姿を見て、土屋は感動していた。
「でも、オレなんか一球一球が必死なんだよね。江川さんなんか、力の配分が理想的なんですよ。でも、この夏の甲子園の江川さんはこれまでとは違いましたね。だってバットに当たるんですから。そんな次元です。初めて見た時は、プロの選手が投げていると思うほどのレベルの違いを感じました」
1学年下の土屋にとって、江川に対する思いはライバルというより、あくまで先輩という感覚なのだ。5回対戦したが、一度も江川とは話したことがないし、プロ入りしてからも会話らしい会話はしたことがないという。
「江川さんを筆頭に、スター揃いのひとつ上の世代と戦ってきましたから。自分が最上級生になって、同学年ですごいとかあまり思わなかったですね」
土屋にとって"江川世代"と戦えたことは特別であり、肩やヒジを壊す前だったことも関係しているのであろう。
「作新のバッターが高めの球を空振りしているってことは、ボールがいっている証拠ですよね。江川さんと投げ合った夏の甲子園が一番よかった。江川さんが最低の投球をし、僕が最高の投球をした。だから、勝てたんです」
この試合、土屋が奪った三振は12で、江川は9。高校時代の江川が、相手投手より三振数が少なかったのは、初めてのことであった。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。
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