江川卓の心身疲労、出場校中最低のチーム打率、仲間との亀裂...大本命・作新学院の大きすぎる不安要素

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

連載 怪物・江川卓伝〜夏の甲子園初戦、延長15回の死闘(前編)

「最後の夏は優勝なんて考えていない。負けないように......と精一杯でした」

 作新学院のエース・江川卓の女房役である亀岡(旧姓・小倉)偉民は、当時を振り返りそう答えた。

 監督の山本理でさえも、「正直、夏は全国制覇を狙える状態ではなかった」と断言している。そして江川もまた、本調子でなかったと語っている。

「最後の夏は、とにかく県大会を勝ち抜かなきゃいけないという思いが強かったですね。県大会は絶好調じゃなかったけど、何とか乗り切れた。でも、甲子園に来たら暑さでバテちゃったんでしょうね」

春夏連続して甲子園出場を果たした作新ナイン。前列右が江川卓 photo by Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images春夏連続して甲子園出場を果たした作新ナイン。前列右が江川卓 photo by Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Imagesこの記事に関連する写真を見る

【出場校中最低のチーム打率】

 甲子園を決めた段階で、すでに江川は心身ともに疲弊していた。さらに深刻だったのは、調子の上がらない打線だった。

 春のセンバツ出場時のチーム打率.333は、出場30校中3位の強力打線だったが、夏はチーム打率.206で、これは出場48校中最低の数字だった。この数字の低下と比例するように、江川とチームメイトとの距離も離れていく。

 甲子園に出場する強豪校の取材をすると、たまに「夏は早く負けようと思って......」とにわかに信じられない言葉を聞くことがある。本気で言ったのではなく、あくまで気持ちを落ち着かせるための言葉だろうと、自分なりに解釈していた。

 だがこの時の作新は、本当に負けたかったのではないかと思うのだ。過熱する報道に嫌気がさし、早くここから抜け出したかったのではないか。江川のことを嫌いになったわけじゃないのに、知らぬまに距離ができてしまう。このまま勝ち続けると、本当に江川のことを嫌いになってしまうのではないか......そんな気持ちがあったとチームメイトはのちに語っている。

 同じ宿舎に泊まっていた箕島(和歌山)が、近くの海岸でチーム一丸となって素振りしている姿を横目で見ながら、作新ナインはどこか冷めていた。春のセンバツと違って「宿舎での取材はお断り」と報道規制を敷いたため、宿舎は閑散としていた。

 1973年の全国高校野球選手権大会の大本命は作新学院であり、注目は江川だった。甲子園に入ってからも、江川の一挙手一投足に注目が集まった。作新学院の初戦は、大会2日目の第3試合、相手は柳川商(福岡)に決まった。

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