阪神ドラ2はいま教師 伊達昌司は突然のトレードに「自分が商品であることを痛感」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── 2004年はケガで離脱もあり、19試合と登板数を減らしました。そして翌年の開幕前に巨人にトレード。

伊達 巨人ではほとんど一軍にいませんでした。先程の「ピンチとチャンスは表裏一体」の考えは、日本ハムでは生かせましたが、巨人ではダメでした。ただ、桑田真澄さん、工藤公康さん、前田幸長さんといった一流の投手がけっこうファームにいて、桑田さんの「集中力とキャッチボールの精度」、工藤さんの「投球時の踏み出す足の粘り」、前田さんの「若手へのアドバイスの仕方」などは勉強になりました。

── 巨人で2年間プレーし、2006年限りで現役を引退されます。3球団で2年間ずつ。まだ十分やれると思いましたが、プロに未練はなかったですか。

伊達 力がなかったのでしょう。「やりきった」という思いもあったので、トライアウトを受けて、縁がなかったら仕方ないと思っていました。すでに結婚もしていたので、NPB以外の独立リーグや海外のチームに行くという選択肢はなかったです。

── 言いづらい話ですが、伊達さんが移籍すると前所属のチームが優勝というジンクスがあります。

伊達 そうなんですよ(笑)。あの歓喜の輪に加わりたいという思いは、正直ありました。だから、「そのジンクスを知っているチームが僕を獲得して、移籍させれば優勝できるのに......」と思っていました。

── プロ野球時代、一番悔しかったこと、思い出に残っていることは何ですか。

伊達 悔しかったのは2001年6月9日の巨人戦(東京ドーム)で、清原和博さんが記録した1試合3本塁打のうち2本目と3本目を打たれたことです。その3本目はいわゆる"ブロークン・バット・ホームラン"。バットを折りながらレフトスタンドに運ばれました。そんなプロ野球の圧倒的な力を持った選手たちと対戦し、体もそれほど大きくないし(179センチ)、すごいウイニングショットもなかったけど、内角を攻めたり、タイミングを変えたり、工夫をしながら、なんとか食らいついてやってきました。人間、頑張れば何とかなるという手応えを感じました。それは僕がプロ野球経験者として、生徒たちに一番伝えたいことです。

後編:「甲子園で投げるより緊張する瞬間」はこちら>>


伊達昌司(だて・まさし)/1975年8月23日、神奈川県生まれ。法政二高、法政大、プリンスホテルと進み、2000年のドラフトで阪神から2位指名を受けて入団。1年目にプロ初登板初勝利を挙げるなど、4勝をマーク。2年目は中継ぎとして41試合に登板するも、同年オフにトレードで日本ハムへ。移籍1年目の03年、51試合に登板して5勝9セーブ。05年3月に巨人にトレードされ、06年に現役を引退した。引退後、東京都の教員採用試験に合格し、江戸川高、府中西高を経て、19年に雪谷高に着任。21年春から野球部監督を務めている

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