阪神ドラ2はいま教師 伊達昌司は突然のトレードに「自分が商品であることを痛感」 (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

【プロ初先発初勝利】

── 2001年5月25日のプロ初登板(甲子園)、記念すべき最初の奪三振は松井秀喜(巨人)さんからでした。

伊達 あれには伏線があって、オープン戦で松井さんにホームランを打たれているんです。それもあって、甘いところに投げたらいけないという意識があって、ワンバウンドするようなフォークを投げたら振ってもらえました。"振り逃げ"というオチがつきましたが......(笑)。

── 同年6月17日の横浜(現・DeNA)戦では、プロ初先発初勝利。阪神では1984年の池田親興さん以来、17年ぶりの記録でした。チームは4年連続最下位に終わりましたが、伊達さんはルーキーながら7試合に先発して4勝を挙げました。

伊達 頑張って、一軍にしがみついていましたね。捕手の野村克則さんは2歳上で、同じ東京六大学の明治大出身。大学時代に僕が初安打を打たれた縁もあり、バッテリーを組んでうまくリードしてもらいました。当時監督だった野村克也さんにサインをしてもらった記憶があります。

── 翌2002年は、星野仙一さんが新たに監督に就任し、伊達さんもリリーフで41試合に登板しました。

伊達 前年、星野さんは中日の監督で、ベンチから僕の投球を見てくれていたんだと思います。星野さんは我慢強く使ってくれました。監督としての星野さんの印象は、とにかく"エネルギッシュ"だったということです。

── 入団してから2年ともそれなりの成績を残したのに、下柳剛さんらとの複数トレードで日本ハムに移籍。トレードを通告された時の心境はいかがでしたか。

伊達 2002年の秋季キャンプで、翌年から投手コーチに就任される西本聖さんに指導を受け、「さぁ来年」と思っていた矢先でした。それだけに自分が"商品"であることを痛感しました。プロはピンチとチャンスが表裏一体。だから、商品価値を高めなくてはいけないんだと。

【巨人の名投手から学んだこと】

── 阪神では背番号「49」でしたが、日本ハムでは「17」と期待の大きさがうかがえました。事実、ストッパーを任され、開幕戦では前年優勝の西武からプロ初セーブ。移籍1年目は、最終的に51試合に登板して5勝9セーブの成績を挙げました。

伊達 トレイ・ヒルマン監督が春季キャンプで、「球数を少なくして、勝負していこうよ」と目をかけてくれました。僕自身は緻密なコントロールがあるわけではないので、内角を意識させて、スライダーやフォークで勝負するのが生命線でした。阪神時代の応援歌は「喧嘩投法」でしたし(笑)。

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