西武「管理野球」広岡達朗から森祗晶らが受け継いだ後「緩んだタイミング」石毛宏典が考察 (2ページ目)
――広岡監督のもとでヘッドコーチを務めていた森祇晶さんも、監督になってからは管理野球を継承した?
石毛 そうですね。広岡さんが決めたさまざまなルールを踏襲していました。毎年のように優勝し、常勝軍団と言われるまでになった。プロは結果がすべて。選手たちの間には「ルールは守って当たり前」という意識が当然のように根付いていました。
――そのルールは、森さんが監督を退任して以降も継承されていった?
石毛 森さんは1994年に監督を退任されましたが、同年に私もFAでダイエー(現ソフトバンク)に移籍しているので、その後に監督になられた東尾さんがどういったルールを決め、管理をしていたのかはわかりません。
ただ、東尾さん自身が広岡・森監督時代に勝つ味を覚えたわけですし、管理野球を否定するようなことはなかったと思います。先ほどもお話しましたが、野武士軍団の東尾さんからすれば、当初は管理野球に対して不満があったと思います。でも、監督になれば「そういった管理も必要だろうな」というのは、頭の片隅にあったんじゃないかと。
――7年間の長期政権となった東尾監督の後を継いだのが、西武の黄金時代に長年コーチを務められていた伊原春樹さん。監督を2年間務められて、就任1年目にはリーグ優勝(2年目は2位)。その後、伊東勤さんに指揮官のバトンを渡しました。
石毛 伊原さんは厳しい方なので、規律を強化してチームを引き締めたと思うんです。ただ、伊原さんは人間的な教育は厳しくできますが、技術論を説いたり細かい技術指導をしたりということがあまりありません。「西武鉄道の初乗り運賃がいくらか?」みたいな質問を、選手たちにしていたこともあるようです。
多くの選手は自家用車で球場に来るから運賃はわからないじゃないですか。西武鉄道の優待券があるかもわからないし。そういう一般常識を知っているかどうか、ということも重視していたんでしょうね。
――その後、監督になられた伊東さんはどう見ていましたか?
石毛 就任1年目にリーグ優勝と日本一を達成するなど結果を出しましたし、伊東も広岡さんと森さんの教育を長年受けてきています。加えて、キャッチャー出身の監督らしく、抜け目のない"丹事徹底"と言える野球をやっていた印象です。
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