西武「管理野球」広岡達朗から森祗晶らが受け継いだ後「緩んだタイミング」石毛宏典が考察
石毛宏典が語る西武の再建 前編
今季はリーグ5位が確定した西武。2018年、2019年とリーグ連覇を果たすも、当時の主力選手が年を追うごとに離脱していった影響もあり、近年は苦しい状況が続いている。
1980年代中盤~1990年代中盤には黄金時代を築き、常勝軍団と言われた西武。本当の強さを手に入れるにはどのように再建していくべきなのか。黄金時代に長らくチームリーダーとして活躍した石毛宏典氏に打開策を聞いた。インタビュー前編では、強さの原点とも言える"管理野球"の系譜を振り返ってもらった。
西武に管理野球を持ち込んだ広岡達朗と、広岡のもとでコーチを務め、後に監督に就任した森祗晶この記事に関連する写真を見る
【東尾らも受け入れた管理野球】
――広岡達朗さんが監督を務めた1982年から1985年、森祗晶さんが監督を務めた1986年から1994年は、計13年間で11度のリーグ優勝、8度の日本一を達成しました。圧倒的な強さの要因のひとつとして考えられていたのは、規律を重視する"管理野球"でしたね。
石毛宏典(以下:石毛) プレー面はもちろん、食事をはじめとした生活面でも徹底的に"強制"されていました。ただ、管理野球が始まったのは広岡さんの時からで、私が入団した時の監督だった根本陸夫さんは、「プロ野球選手は自己管理するのが当たり前だ」と考えていたタイプ。門限を決めることなどもなく、管理されることはありませんでした。
私は市立銚子高や駒澤大学の野球部時代に厳しい教育やしつけを受けてきたので、ある意味で管理されるのは当たり前だと思っていましたが、プロに入って「自己管理だぞ。好きにやっていいぞ」と言われた。ただ、プロ入り1、2年目くらいは学生時代の教育が染みついていたので、「これはやっちゃっていいのかな?」と踏みとどまったり、自分で自分を律していました。
――広岡さんが監督に就任されて管理を徹底し始めた時、中堅やベテランの選手たちはどういう反応を示していましたか?
石毛 東尾修さんらベテランの方々は、言わば"野武士軍団"(各々の個性が強く、管理を嫌う)で、他人に管理されない生活に慣れていました。なので、広岡さんが練習内容をはじめ、門限を決めたり食事のメニューを規制したりすることに反発していました。それでも、広岡さんの「こうしたら勝てる、こうしたら負ける」という教育によって優勝という"果実"を手にすることができたので、東尾さんたちも管理野球を受け入れざるをえなくなったんだと思います。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。