「1980年代の巨人ベストナイン」を篠塚和典が選出 自分も入った打線は強力、エースは「どの年代を含めても最高の投手」 (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

【原は長嶋茂雄のあとでも「4番の仕事はやっていた」】

――3番・セカンドにご自身を選ばれています。

篠塚 選んでおいてなんですが......自分のことを話すのもアレなので、ここは飛ばしてもいいですか?(笑)

――それでは代わりに、私が篠塚さんのすばらしさをまとめさせていただきます(笑)。2度の首位打者(1984年、1987年)と4度のゴールデングラブ賞(1981年、1982年、1984年、1986年)。実績はもちろん、当時は「流し打ち」といえば篠塚さん、という印象が強かったですね。

 1984年は3番・篠塚、4番・原、5番・レジー・スミス、6番・クロマティという打順が多かったですが、長嶋さんが同年の開幕戦での篠塚さんのバッティングに対して、「うまいよね」と絶賛されていたのも印象的でしたし、同年、打率.334で首位打者を獲得された時の二塁打の本数(35本)もリーグトップでした。

篠塚 ありがとうございます(笑)。打順は個々の調子などでも変わりますが、確かにその年は3番を任されることが多かったですね。

――4番・サードに選ばれた原さんは、篠塚さんとバッターのタイプは違いましたが、バッティングをどう見ていましたか?

篠塚 やはり長打を打てるのが魅力ですよね。ただ、ファンからは「チャンスに弱い」というイメージを持たれてしまうこともあったし、精神面では大変だったと思いますよ。一緒にプレーしていた僕らからすれば、チャンスに弱いイメージはなかったし、4番としての仕事はやっていたと思います。

――サードの守備はいかがですか?

篠塚 高校、大学と彼がずっとやってきたポジションですし、自分のパフォーマンスを出せる場所でしたからね。ホットコーナーというか、やはりサードが一番合っていたと思います。

――4番・サードといえば長嶋さんの威光があり、ファンの目はどうしても厳しくなってしまっていた?

篠塚 それはあったかもしれませんが、その中でもホームランを打ったし(通算382本塁打)、やはり4番としての役割は果たしていたかなと。長嶋さんや王貞治さんが引退されて、その後に僕らに世代交代していったわけですが、そういう意味では原だけでなく、僕らはみんな大変でしたよ(笑)。「V9の後で、巨人の名前を汚さないようにやれるのか」ということで。

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