斎藤佑樹が明かす早大野球部100代主将就任の舞台裏「無理だよって...でも流れは止められませんでした」 (4ページ目)
監督に言われたのは、「4年になるメンバーのなかで1年の時からケガもせず、ずっと試合に出続けた選手はお前しかいない。だからこのチームはお前が引っ張っていかなきゃいけないんだ」ということでした。
ほかの選手はメンバーに入れなかったりケガをしたりして、試合に出ていない時期がある。ずっと試合を見てきたお前だからこそできることがあるんだ」と......なるほど、そういう考えもあるんだなと思いました。
ただ、それまでの僕はチームを見るというよりも自分のことで必死でしたし、自分のことしか考えていなかった。だから主将なんて無理だよ、とも思っていました。実際、僕は投票では宇高(幸治)に入れました。でも投票結果は発表されずに最後は監督が決めて発表するので、もう流れは止められませんでしたね(笑)。
しかも、僕は100代の主将でした。たぶん100代じゃなかったら、主将になっていなかったんじゃないかと思います。僕らは入学した時から「お前らの代の主将って100代目だな」ということを言われていて、「100代だったら斎藤じゃね?」「だって應武監督、そういうきりがいいのが好きだもんな」って、そうやって外堀を埋められていた感じはありました。
だから何となく心の準備はできていましたし、宇高が副主将になったので、いろんなことは野手の宇高に相談しよう、なんて考えていました。
主将の仕事は、練習終わりのミーティングで監督が気づいたことを短く話して、その話を受けて新人監督がしっかりと話をしたあと、最後に主将の「お疲れ様でした」の挨拶で締めるくらいの感じでした。だからなのか、あまり気負うことなくスタートできたような気がします。
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3年間で斎藤が積み重ねた数字は通算25勝、奪三振は265。その時点での東京六大学では5人しか達成していなかった通算30勝&300奪三振のダブル達成を視野に、主将となって背番号10をつけた斎藤の大学ラストイヤーが幕を開けた。
(次回に続く)
著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。
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