【追悼】門田博光が生前語っていた通算567本塁打の悔恨「あと33本は打てた。打つべきだった」 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 でも、みんなそこまで追求せんのや。ホームランを打てるヤツは『ヒットでええわ』となって、40本狙えるヤツも『30本でええわ』となってしまいよる。今はそれでも十分な諭吉(お金)が入ってくるから、それがまた挑戦の邪魔をしとるんやけどな」

 もし門田が600本台に達していれば、アーチストとしての重みはより増したに違いない。

「ほんまに600本はいけたんや。30歳の頃、オレはまだおっさん(野村克也)の背中も見えていなかった。31歳でアキレスをちぎってから、より追求するようになってホームランが増えていったんや。だから40歳を超えてもまだまだやれる感じはあったんやけど、最後は新聞に"引退"って書かれて、一気に辞める方向になってな......。600本は打っとくべきやった。一番の悔いはそこや」

 本来ならその心残りも含め、自らの技術を伝えるべくアーチストの育成に力を注ぐ道があってしかるべきだった。しかし、現役引退後は一度も指導者としてNPBのユニフォームを着ることなく、時は流れた。

 独立リーグや社会人などでは指導したことがあったが、門田の思いを本当の意味で満たす選手と出会うことはなかった。

 門田には伝えたいこと、遺したいものがいくつもある。しかし、その場がない。気がつけば、門田との贅沢な時間は3時間を超えていた。

「またアホみたいな話をようけしゃべってもうたな。そろそろええ時間やろ? 帰ろうか。山のなかで猫とタヌキが『腹減った、メシくれ』と待っとんねん」

 そう言うと、門田は席を立ち、緑のなかをゆっくりと歩きながら、戦う必要も、挑む必要もない静かな日常へと戻っていった。

つづく>>

(=敬称略)

プロフィール
門田博光(かどた・ひろみつ)/1948年2月26日生まれ。天理高からクラレ岡山を経て、1970年にドラフト2位で南海に入団。2年目の71年に打点王を獲得。79年のキャンプでアキレス腱を断裂するも、翌年に復帰。81年には44本塁打を放ち、初の本塁打王に輝く。40歳の88年に本塁打王、打点王の二冠を獲得。その後、89年にオリックス、91年にダイエーでプレーし、92年限りで現役を引退。2006年に野球殿堂入りを果たした。通算成績は2571試合、2566安打、567本塁打、1678打点。

【著者プロフィール】谷上史朗(たにがみ・しろう)

1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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