仰木彬政権下、独走するオリックスで星野伸之が常に抱いていた緊張感。「10.19」の悪夢を経て「仰木マジック」は磨かれていった (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Kyodo News

――仰木監督のもとで野球をして、新しい発見はありましたか?

星野 (前編でも話したように)先発ローテーションを任されるようになってから意識していた「先発したら完投」という考えが変わりました。後ろに鈴木平や野村貴仁、平井正史ら強力なリリーフ陣がいましたし、「とにかく5回まではしっかり抑えよう」と。完投した時よりも疲れを感じることもありましたね。"力む"わけではなく、「5回を9回と思って投げよう」とすごく集中していたので。

 リードして5回を迎えた時にマウンドからブルペンを見て、平井が力を入れて投球練習を始めたら「絶対に逆転されてはいけない」とも思いましたね。リードを保たないと、別のピッチャーも投球練習をしなければいけなくなりますから、必死で投げましたよ。

――逆に、リリーフ陣はフル回転で大変だったんじゃないでしょうか。

星野 そうですね。鈴木も、2連投したあとに移動日を挟んで、次のカード頭の試合も出て3連投ということもザラにありました。鈴木とは普段からよく話す仲だったんですが、「また、仰木監督から『3連投いくぞ』って言われちゃいました」と報告してきたこともありました。

 ただ、仰木さんはリリーフ陣に相当気を遣っていました。リリーフ陣を集めてお金を渡し、「みんなで飯でも食ってこい」と言ったりしていたみたいですし。お金を受け取った鈴木が「どうしたらいいんですか?」と聞いてきた時は、「素直に『ありがとうございます』と受け取って、全部使い切ったらいいんじゃない?」って言いましたよ(笑)。

――仰木監督は指揮官でありながら、サードコーチャーを担った時期もありましたね。

星野 その時は、走塁の判断ミスなどが何回かあったんですよ。サードコーチャーとどういう話をしたのかはわかりませんが、「もう自分でやるしかない」と思ったんでしょう。そういったリスク回避、ひとつ間違えたらえらいことになる、という仰木さんの意識は、あの(※)「10.19」を経験していることも大きいと思うんです。ものすごく悔しい思いをしたはずですから。

(※)1988年10月19日の近鉄vsロッテのダブルヘッダー。仰木監督率いる近鉄が2連勝すればパ・リーグ優勝が決定したが、1試合目に勝利したものの2試合目が延長10回で時間切れの引き分けとなり、西武の優勝が決まった。

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